昨日のブログで、トーキョーグールを見始めたということを書きましたが、大分おもしろくて、寝る間も惜しんで1期12話一気見してしまいました(こういうのをハマるというんでしょうかね)。
もうね、東京グール→トーキョーグールと修正するくらい片足つっこんでますよ。あの世界観に(それを、世間ではニワカというのだよ笑)。
カネキが主人公である理由
これも、1話チラ見した時点での感想として、
「グールってのは、いうなれば、人類の敵なわけでしょう?その上で、主人公がグールなら、どうやって人類である視聴者は、グール側に感情移入すればいいの?」
ということが最初に頭をかすめたわけですけど、
どうやら、主人公たるカネキ君の特殊性は、まるで名探偵コ〇ン君がごとく(全然違うだろ笑い)、見た目はグール、でも心は人間というところにあるみたいなんですね。
それゆえに、敵同士として理解しあおうとせず、お互いに殺し合う2つの種族の架け橋になれると。
作中、人類はグールを人間に仇なす感情を持たないただの捕食者として忌み嫌い、またグールもそれと映し鏡であるかのように、人間に対して憎しみと畏怖の念を抱いていることを象徴するようなセリフも登場しましたが、
まだ1期の段階ですら、カネキが若き捜査官である亜門に対して、自分たちはあなたたちの敵じゃない!と訴えるシーンなどもみられ、今後、両者がどのようにして歩み寄りをみせるのか、理解し合うことはできるのか、共存は可能なのか…その辺も楽しみに見ていきたいところです。
もし、ゾンビに理性や知性や感情があったら…
この作品に触れると、他のゾンビ作品で、もし、ゾンビにも人間並みに知性や深い情愛を持つものがいたら、ストーリ―も大分違ったものになるんだろうなぁ…
そんな風に思う自分を発見したりもします。
これまでの作品では、「ゾンビ=理性の欠片もなく本能で動く怪物」という定式のもとに作品作りがされることが多かったと思うんですけど、じゃあ、どうしてゾンビのように人間を捕食するという特性を持ちながら、この作品の根幹をなすグールたちはこうも美しいのか・・・。
もちろん、石田スイ先生の描くキャラクターが美しいからというのはありますよ。
そして、凛として時雨の歌うOP「unravel」やED曲の「The Saints」もこの作品の世界感に合いすぎです(笑
ただね、流行りなのか、今を時めくアニメ作品の監督たちにもあの作品の影響は大なのか、
最終回になると、白背景の中で、永遠とキャラクターの心理描写や独白が続く演出…あれは、イマイチ良さがわかりませんでした(笑
単純に冗長ですし、動きが無いので退屈ですし…。
アニメってのは、小説よりも長々とした心理描写には向かない媒体なのかもしれませんね。
技術的に不可能ではないと思うんですが、どうしても戦闘シーンをはじめとしたダイナミックなシーンとの落差を感じてしまうので、じれったいというか、そういうジレンマは作り手の方にもありそうですよね(いったい何の話だ(笑))。
それと、いくつか悲しいシーンも記憶に残っておりまして。
それは、ひとつは、エリート捜査官にあこがれる平凡で人のよさそうな捜査官がグールによって殉職するシーン。
そして、その捜査官らの手によって、グールの幼い少女が母親を目の前で殺さてしまうシーン。
いずれも、戦闘とはかかわりのない、無辜なる人たちで、
そういった”いい人”ほど、戦争では命を落としてしまうという現実を、アニメの世界でも再確認させられたというようなほろ苦さを感じました。
とはいえ、妥協せず、現実の持つ容赦の無さを描いていることも名作の条件かと思いますので、その意味では、作り手の本気を感じさせる要素のひとつに違いありません(生言ッてスイマセン(汗))。
あ、それと、ずっと気になっていたこと。
ストーリーを知らない私にも、この作品の鮮烈な印象を植え付けた、あの白髪の青年が口裂けマスクを纏い不敵に笑うイラストの正体。
その意味も、最終話まで見終えてようやく理解できましたよ。
つまり、アニメ第1期は12話をぜいたくに使った壮大なプロローグだったのですね。
ということで、引き続き2期目を楽しみタイと思います。
それでは、また。