実家の古い本棚を漁っていると、亡き祖父の蔵書が見つかった。
それは、近現代の日本の名だたる文豪たちの代表作を収めた全集であり、しばらく誰の手に取られることもなく書架に眠っていたせいで、若干埃を被ってはいるものの、状態としてはすこぶる良いものだった。
何気なく、その中の1冊『太宰 治集』を手に取ってみる。
今ではあまり見かけないような、本を収めるための収納ケースの表紙は、津軽富士と呼ばれる岩木山の雪化粧を纏い、青々とそびえる様がカラー写真によって飾られている。
紙の本がまだまだありがたがられていた時代のことを懐かしく思う。
そのような丁寧な仕事の施された本であるし、また、亡き祖父の形見でもあるので、本を扱う手も自然と慎重なものとなってゆく。
他の作家の名前が並ぶ中で、なぜ太宰治なのかというと、自分でも理由は判然としない。
ただ、「晩年」に始まり、人間失格、走れメロス、あるいは津軽など、折に触れてその作品に目を通してきた馴染みの作家だということはあるのだろう。
祖父も、しんと静まり返った夜に、この本に目を通したのだろうか…などとしばし物思いにふける。
そして、しばらくの感慨の後、本を開いてみると、これまた今の本には珍しいような『太宰治集 月報』なるものが付録として挟みこまれており、そこに「酒と女と文学と」という表題を冠して掲載されていた 壇 一郎氏と三浦哲郎氏の太宰談を楽しく拝読する。
その後、太宰のルーツを紹介する美しいカラー写真の載ったページを眺め、さらに読み進むと、今度は『デラシネの夜の終わりに』と題して、五木寛之氏の紀行文が掲載されていた。
「大河の一滴」や「風に吹かれて」など、私が好きな作品を数多く世に出され、今なお現在進行形で活躍される大作家の紀行文とここで出会ったとなれば、
この機運を無碍にするわけにもいくまい、ということで、寒い廊下で足をさすりながら、ついつい、予定時間を超えて、本棚の前に長居することとなった。
九州出身の五木氏が、地理的には大分離れた青森のことについて書くというのも、少し妙な気もするが、他の東北の地域とは少し違い、青森には、どこか自らのルーツに通じるような親しみを感じるのだという。
西と東の違いはあれ、目の前には常に海が広がり、その先に無限の広がりを夢想させるような地理的な類似性の中に、あるものを作家に仕向けるような共通の土壌があったのかもしれない…などと下らぬ妄想なども巡らせつつ、さらに頁をめくっていくと、ふと、このような一文に目が留まった。
二つの世界が私たちの前にある。日常の世界と虚構=小説の世界。そのどちらが現実であるかと言えば、両方ともまごうことなき現実であろう。事物とイメージが共に同じ重さで実在する以上、虚構の世界も一つの現実であるのは当然のことだ。
この一文を読んで想起されたのは、なぜか近頃よく耳にする”リア充”という言葉だった。
よく、現実(リアル)と虚構(ここでは小説が例に挙げられているが、卑近な例ではインターネットやゲームなどもある意味ではこれに当てはまるだろう)を混同することの問題点が指摘される。
そして、そのような場合、決まって、俗にいう現実(リアル)の方が優先すべきものだと結論づけられる。そこに異論をさしはさもうものなら、非リア充のレッテルを張られて弾圧されるのが、おそらく今の時代の空気なのだろう。
前から、そのような風潮には違和感を感じていたが、
まさか、何十年も前の古い蔵書から、その違和感の正体をひも解くヒントを頂戴できるとは思いもしなかった。
そもそも、誰にとっても疑いようのない現実なんて存在するのか?
こんなたとえ話がある。
ある雨上がりの道に、ひとつの水たまりがあった。
そこを通りがかったホームレスの男にとって、それはただの邪魔な水たまりに過ぎなかった。
そして、悪態をつきながら、その場を後にした。
一方で、また、別の男がその場所に通りかかかった。
彼は、その場に立ち止まり、じっと水たまりを見つめていた。
時に、笑みさえもたたえながら。まだ幼い子供ならいざ知らず、大の大人がである。
実は、その男は、微生物学者だった。
そして、その水たまりの中には、彼にとって興味の尽きない無限の宇宙が広がっていたのだ。
この話の中で、現実(リアル)とはいったいどの部分を指す言葉なのだろうか?
仮に、「水たまりがある」という現象面だけをリアルとするならば、微生物学者がそこにみた宇宙的な広がりは、すべて”虚構”ということになるのだろうか。
そうではないだろう。
なぜなら、人は目の前の出来事をありのままに捉えることなどできないからだ。
見るとすれば、それは自らのフィルターを通してみているに過ぎない。
そして、それは、その人の知見や認識と切り離すことはできない。
思うに、その知見や認識を形成するうえで欠かすことのできない役割を担っているのが、小説に代表されるさまざまな虚構群なのだ。
もちろん、科学的な知識と空想は別だという意見もあるだろう。
しかし、例えば、哲学の分野や、文学、あるいは歴史的な認識となると、それらから虚構的な要素を完全に取り除くことなどできはしない。
なぜなら、そこには、少なからず、学者や研究者個人の思想や価値判断、推論が含まれるからだ。
であるならば、五木氏が紀行文の中で指摘されているように、虚構もまた現実の一部であり、場合によっては現実(と世間一般に理解されているさまざまな事象)よりも、当人にとって真実味を持って感じられることだってあるのではないか。
少し前の話だが、70歳を超えて、ダークソウルというゲームに興じるおじいさんが話題に上ったことがあった。
「昔から、いろんなことを経験してきたし、旅行もいった。そして、この年になると、よく昔のことを思い出す。その中には、ゲームの中で行った場所もあんねん。ゲームの中のことやけど、実際に行った場所と同じように思い出す時があんねん。」
たしか、ゲームをプレイし続ける理由を尋ねられた際に、その方はこのように答えていたのではなかったか。
もし、私自身の実感と世間一般の価値判断が対立するのなら、私は自らの実感を信じたいと思う。
先ほど紹介した五木氏の言葉も、ダクソおじいさんの言葉も、
それぞれが生きてきた時間と経験を通してつむがれた実感なのだとすれば、これほど今の私にとって心強いものはない。
追記
最後に、
リアル/非リアルといった、よくわからない二元論に苛まれてシンドイという方へ。
もし、そんな考えに囚われそうになったら、
自分が感動したり、強く鮮やかな印象を与えてくれるものは等しくスバラシイ。
それが現実だろうと虚構だろうと、どっちでもいいじゃん。
そんな風に価値転換できると、ラクになることもあるのではないだろうか。
といったころで、今回はこの辺で。
それでは、また。