アニメは残酷だ。
美しい作画に、透き通るような美声を奏でる声優たち。
それらが組み合わさることで、いとも簡単に、というと製作者の苦労に水を差すようで申し訳ないが、あたかもそれが、当然、世界のどこかに存在するかのような錯覚を、ある人間の脳裏にインプットしてしまう。それは、まるで、精神的レ〇プだ。
ときに、そう感じるほどの衝撃と感情の揺れ動きを余儀なくされる。
かくいう筆者も、恋は雨上がりのようにという作品のおかげで、
もう、すっかりJKと恋をしたい!という衝動に火をつけられてしまった…。
というと完全にヤベーやつまっしぐらである。
参考:「恋は雨上がりのように」を読んで死にかけました
オオ、ポカホ…同士よ。
しかし、男なら誰しも、学生時代の淡い思い出のようなものはあって、その時感じた憧れやときめきは、中年に差し掛かる年齢になっても、心の奥底に消えずに燃え残っているのでないか。
まあ、他の人のことはこの際置いておいて、少なくとも私の中には、僅かながらでも確実にそんなJKコンプレックスのようなものがわだかまっていたようだ。
そして、それがあきらという理想化された女の子と出会うことによって、一気に顕在化してしまったというわけだ。いやはや、この情動、どうしようもないだけに、本当にどうしようもない(笑
行き場をなくした妄想はどこへ?
たとえば、いつか私の書いたものが一人のJKの目に留まって、願わくば少しだけ琴線に触れて、それがきっかけでメールのやり取りなんてものが始まって。
そんな妄想で、何とか留飲を下げつつ、こうして書くことによって、現在進行形でとっちらかった心をなんとか整えようとしている。
ただ、お行儀よくキレイごとを並べるだけではあきたりないし、たまには醜い本音も吐露してみたい。清濁併せて人間だ、なんてうるせーことは言わずもがなで、
かといって、鼓動は「JK、JK、JK!」と刻一刻とのっぴきならない渇望のビートを刻んでいる。
もちろん、したり顔で「ちっ、おっさんホイホイ乙!しかしまんまと製作者側の思惑にやられちまったぜ!」と嘯くくらいの小賢しさは、この年になれば多少は持ち合わせている。
しかし、それでは、ダメなのだ。
それをやっちゃうと、自分の中の少年性が摩耗して、自分がどんどんつまらない大人に変貌していってしまうのを感じる。
確かに、おっさんホイホイというコンセプトで作られた作品には違いない。
しかし、作品それ自体は、火付け役に過ぎなくて、やはり大炎上するための燃料は私の中にわだかまっていた何かなのだ。
だから、そのわだかまり自体に気が付いてしまったのなら、もはやその解消に向けて何らかの行動を起こさないわけにはいかないのである。
日常をつつがなく送る。
つまりは、安定。
そのためには、無用な心の高鳴りや動揺は悉く排除する。叶わない衝動や感情に対しては、冷めた態度を決め込み、徐々に、不感症にもなっていく。
青春というものから距離を置き、そうやって生き上手くなっていくことを成熟と呼ぶのなら、果たしてそれは幸福なことなのだろうか。
まあ、それでもイチイチ日々動揺したり、混乱したりを繰り返すのは、歳を重ね体力や生命力が低下すればするほど、明らかにシンドイことに違いない。
しかし、そのようなしんどさと向き合うのをやめてしまったら、自分の中から大切な何かが決定的に失われて永遠に戻ってこないのではないか?という危機感のようなものがある。
むしろ、まだそのような混乱や動揺を感じられるだけ幸せで、だとすればこの手の混乱や動揺はしまくりつつ、それと向き合いながら生きていく、という選択もそれはそれでアリなのではないか。
若い少女の魂に触れることで、自分の中で死にかけている何かを取り戻したい。
再び、生命の躍動を感じたい。
笑われることを承知で本音を言うなら、近藤店長と同じく、私の中にもそのような本能的な希求が、渇望が地下水脈のように底流していないわけがないのだから。
あとは、しっかり見つめるか、見まいとするかの違いがあるだけだ。
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ここで、少し角度を変えて
たとえば、女子高生に対し、いや女子高生に限定せずとも、好きな女性にラブレターを書くとして、目的は当然、恋を成就させることだ、ということに異論はないと思う。
そこで、考えに考えたあげく、
「あなたのことが好きだから~~」と100万回書いたとしても、おそらくドン引きされて終わりだろう。
となると、私がここでJKと恋をしたい~~と何万回書いたところで、これまた「キモッ」で終了である。そんなことは分かり切っている。
だとすれば、未来の恋人(笑)に対し、私ができることといえば、
月並みだが、その人のために何かアクションを起こすことに他ならない。
それは、ちょっと笑えたり、ちょっと救われたり、あるいは、運が良ければしばらく大切に心に持ち続けてもらえる何か、をつくることなのかもしれない。それは、よくわからない。
しかし、この世界のどこかで、あるいはこれからこの世に生を受けるその命も、やがては何かに悩み、何かを求めて生きていくのだとしたら、
その中のどれかひとつにでもピンポイントで応えることができたら・・・あるいは。という希望くらいは持ち続けてもいいのではないか。
理想化された女の子に向けて何かを書き続ける、あるいは作り続ける。
少なくとも、今、私の中にあって、当面、直接的には解消できそうもない切なる感情は、そう決意するに至ってようやく少しだけ沈静化の気配を見せつつある。
無論、JKもどきに性のはけ口を求めたところで、空しくなるだけだ。
私は、性欲を解消したいのではなく、彼女と恋がしたいのだから、たとえ束の間でも。
そのためには、遠回りでも正攻法でいくしかない。