人生とは、死という当然の結末に向けて、自分の本質を磨く旅(もしくは修行)である。
最近、ふとそんなことが思い浮かんだ。
魂や心ではなく、本質としたのは、前者にはどこか宗教やスピリチュアルな雰囲気がある一方、その時、私がイメージしていたものが、肉体的な特性(美醜や男女の違いや年齢など)や信仰の如何を超えた”普遍的な何か”だったからなのだろう。
そのために、各人には、さまざまな試練や課題が与えられ、
また、ある人は自らで課題を設定して、そこに立ち向かってゆく。
すべては、己の本質を磨くために。
たとえば、1000日回峰行。
今でこそ、阿闍梨の修行として広く認知され、それを成し遂げた者は、周囲からこのうえない尊敬の対象として崇められるが、
よくよく考えてみると、やっていることは何一つ生産的ではない。
言い方を変えてしまえば、それに興味のない人間にとっては無価値だ。
だが、当人にとって、それは、自らの本質と向き合い、死に向けて生きるという意味において、この上ない修練となる…からこそ、文字通り命がけで挑むものが後を絶たないのだと思う。
それは、誰が何といおうとそうなのであって、
そこに他者の眼差しが介在する余地はないように思える。
生産性や効率、コスパなどの価値観が幅をきかせる中に合って、
非効率極まりない、一見無価値と思えるような取り組みが、人生という旅路において大いなる実りをもたらす。
油断すれば、隣の芝生ばかりが気になる昨今、価値観の押し付け合いが加速する世の中に置いて、
もし、ひとつでも自らの中に、”公案”とでも呼べるような悪戦苦闘しながらも進むべき自分だけの「道」を見出せたなら、それは日々に実りもたらす大いなる助けとなることだろう。
とかく、私にとっては、この「ブログを書く」という行為も、一つの「道」なのかもしれない。
気が乗らなくても、書く。
つまらないことでも、とりあえず書く。
そこに意味や打算を挟むなら、それはまだまだケツの青い話ということになりそうだが、人間そうすぐに成熟できるものではない(笑。
ここで、仏教の8苦の中に、愛別離苦というのがありましてね…という話の枕が想起されたのだが、何となく長くなりそうなので、このテーマは、また別の機会にでも。
ということで、
最後に、
最近すっかり日課となりつつあるツイッター散策の際、私の胸に突き刺さった(というと、ちょっと大げさだけど…)乙武さんのツイートを引用させていただいて、今回は終わりということにしたい。
虎の威を借る何とやら…みたいであまりカッコよくないけれど、まあ、いつか何かの機会に見返すことがあれば…。
人間がどうかはさておき、私自身はどうも忘れっぽい質なので((-_-;)
みなさんから多数のリプライをいただいていますが、独断と偏見による『リプライ大賞』は、
「人として最低限の手足を欠いたやつがなに言ってんだ」
に決まりました。PCの画面にコーヒー吹きました。 https://t.co/Tc68Tv2E24
— 乙武 洋匡 (@h_ototake) 2017年12月28日
メディアの前では、常ににこやかな表情を崩さない乙武さん。
ツイッター上でも、さまざまな心無い誹謗中傷に対し、ユーモアとウィットに富んだ切り替えしを何度もされていて、その精神的な強さは、尊敬の念に堪えない。
きっと、これまで障害(※)をかかえて生きるという、健常者には想像することさえ困難な坂道を、時に歯を食いしばりながら、ひとり、ここまで登って来られたのだろう。
その姿勢は、私も見習わなければならない。
確かに、今年はプライベートでいろいろとあったけれど、英雄色を好むともいいますし。
※ちなみに、障害という言葉を、障がい、あるいは障碍(?)などと表記しなかったのは、
乙武さん自身の「障害者という表記に関しては、社会の側に改善すべき多くの障害があるという意味にとらえていて、ハンディのある人たちを差別する言葉ではないと理解しているので問題ない。むしろ、字づらだけを変えて、それでひとつ差別がなくなったかのように考える方が問題だと思う。」
という趣旨の発言に対し賛同の意を込めて、この記事ではあえてこのように表記させてい頂きました。
どうぞ、ご理解いただきますよう。
それでは、また。