最近、又吉さんの東京百景というエッセイ集を読んでいる。
もともと又吉直樹ファンというわけではないのだけれど、どうやらこれは完全にジャケ買いというやつらしい。
ものすごくボク好みな清楚な女の子の横顔…誰だと思って
「又吉、東京百景、女の子、表紙」でググったら…と思ったんだけど、その前に答えが判明した。
レビューページに思い切りのんちゃんの笑顔がはじけているではないか。
もともと、能年玲奈の芸名(本名らしい)で活動していたのに、事務所とのもめごとで名前を奪われ(本名なのに)今はのんという名前で活動している。
と書くと、まるで千と千尋の千尋みたいでジブリファンからすると応援したくなってしまう。
ノンちゃんといえば、あまちゃんで魅せた天真爛漫な少女の姿が鮮明な記憶として残っている。
ただ口を半開きにした素の表情がこれほど美しいとは…ということで改めて惚れ直しつつ、熱に浮かされ最近、又吉さんの東京百景というエッセイ集を読んでいる。
さらにその流れで、彼女が主演の映画を1本観てしまった。
まあ、この映画はもちろん、のんちゃん目当てで見始めたわけだけれど、これまた菅田将暉の女装姿のハマりっぷり(脚きれいすぎかw)に度肝を抜かれてしまう。
どうも、このところ、お目当てと別のところで驚きと発見があって動悸が止まらない感じ。
踏切がずっと下りたままだったら
さて、そろそろ今回の本題に。
本題も何も、テーマだけ決めてあとは気持ちの赴くままに書いているのだから、そんなものはあってないようなものなんだけれど、
最初に紹介した東京百景という本の中に、『下北沢開かずの踏切』というテーマのものがあって。
まあ、言わずと知れた(?)ずっと閉まったままの踏切がモチーフなんだけど、そこから又吉さんの妄想が膨らんでいって、なんだかインスパイアされるものがあった。
もし、ずっと踏切が閉まったままだったら…
そこで踏み切り待ちしてる人のための出店が出来て、
立ちっぱなしで足がパンパンになった人のためのマッサージ屋ができて、
数か月も待っていると髪の毛もボサボサでしょう?というわけで1000円カットができて、
やがてそこにア〇ホテルや東〇インなんかが下北沢あかずの踏切前店を建てる。
踏切によって分断された恋人どうしは、ラインでお互いの想いを打ち明けあう。
やがて分断された2つの下北は自治領となり、間には検問所ができ、行き来するのにも手形が必要になった。
どこかの半島のように南下北沢と北下北沢に分かれる。
やがて踏切が上がったら…
何世代にもわたって、分断された両陣営だが、又吉さんが亡くなったのち、孫の世代でようやく踏切が上がることになった。
そうしたら、又吉さんのお孫さんはおじいちゃんが踏切が閉まっていたせいで買えなかった古本を買いにいって墓前にそっと手向ける。
会えなかった恋人たちも自治領で別の異性と結婚し、しかしそれでも離れ離れになった恋人のことが忘れられず孫たちに思い出話として語る。
そして、その孫たちは踏切が上がったのち、おばあさんから聞いた相手のお孫さんたちを訪ね、友達になる。
ベルリンの壁崩壊の時のように、もしかしたら、自由を勝ち取ったことを記念して、踏切のバーが持ち去られるかもしれない。
こんなことはいかにも妄想だけれど、今この世界にある分断とか差別とか、戦争とか
意外と始まりはこんな些細なことだったのかもしれない。
あの町に入る山道…がけ崩れがひどくて通りずらいんだよな…
なんて行ってるうちに交流が途絶えて疎遠になってとか。
だからどうだということもないんだけれど、とか書くとちょっと薄情な人間みたいで自分でもあまり気分がよくないんだけれど。
つまり、何が言いたいかといえば、妄想は良きところでとめておくべきということ。
あまり現実と重ねて生々しくすると、切ないやるせない感じになるということ。
だから、又吉さんのように、
「…ということを踏み切り待ちしている間に妄想した」
と結ぶのがいかにも正しいという気がする。
やりすぎはよくなくて昔の人はそれを蛇足と呼んだ。
蛇に足はない。そんなもの描かなくていい。でも人間は、ついつい余計なことをしたくなってしまう。
ただもし、蛇に足があったら、その可愛さ次第ではもう少し人間にすり寄ることができるかもしれない。と思って想像してたらムカデみたいな世にもぞっとする姿が浮かんだ。
きっと神様もなんとか蛇を愛されキャラにしようと頑張ったけれど、いろいろ足してもうまくいかず、今のフォルムに落ち着いたんだろう。引き算の美学。