苦手なこと、出来ないことを強みに変える発想法

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私が人に誇れること。

それは、昔から人並み外れて、記憶力が悪いことだ。

 

無論、一般的には、記憶力は良いに越したことはないと言われるし、実際にその方が学校のテストや受験勉強、各種資格試験なんかで有利なのは間違いない。

 

ただ、私は、幸か不幸か、記憶力が悪い。

 

さすがに、今朝何を食べたか、くらいは覚えているが、

一週間前の昼に何を食べたか(まあ、多分何も食べてないんだけど)とか、

1年前の同じ日に読んだ本のタイトルとか、そんな記憶は、頭を逆さにしてゆすっても、まあ、間違いなく出てこないだろう。

 

友人同士が、小学校時代の馬鹿話をまるで昨日のことのように鮮明に記憶していて、それを未だに酒の席で話しては盛り上がっているのをみると、ちょっと驚いてしまうくらいだ(笑

 

ただ、記憶力が悪いことは、そんなに悪いことばかりではない。

それは、良いことも、嫌なことも等しく忘れてしまうからだ。

 

 

例えば、ある時誰かに、悪口を言われたとする。

 

これで、もし私が抜群に記憶力の良い人間だったら、そのことをずっと根に持ち、時おり思い出しては夜も眠れない!みたいな状況に陥ることもあったのかもしれない。

 

しかし、幸か不幸か、私は記憶力が悪い。

一週間もすると、多分、そのこと自体を忘れてしまう可能性が高い。

 

しかも、忘れてしまう順番が都合よくできていて、

まず、そのとき感じた感情が先に薄らいでいく。その後、事実(あったこと)を忘れていく。

 

だから、後で、

「あの時は、言いすぎたわ。ごめんな。」

なんて相手が詫びを入れる頃には、出来事自体はおぼろげに覚えていても、その時感じた嫌な気持ちや怒りの方はキレイさっぱり消えてしまっているということが多い。

 

 

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できないこと、が得意なことに変わるとき

私の場合は、記憶力だったけれど、世間一般に欠点だと言われていることが、実は生活するうえで長所に転換する(得意なことになる)という例は意外とあるんじゃないだろうか。

 

子供の頃、ひと月に買える本の数は今より少なかったけれど、月に10冊くらい読むようになった今よりも、月に1冊か2冊しか買えなかったころに読んだ本の内容の方が、鮮明に記憶に残っていたりする。

そりゃそうだ。一冊を10回も20回も読み返していれば、さすがに私でも強く記憶に刻まれていく。

 

ゲームに関しても似たようなことがあって、

年に1本か2本しか買ってもらえなかった頃に遊んだゲームのことは未だに覚えているし、その時に感じた興奮や楽しさを超えるゲームは、今もこの先もおそらく現れることはないだろう。

 

ボス戦の前でセーブして、また最初からやり直す…今では到底考えれないが、当時はそうやって”この幸福な時間が終わってしまわないように…”と必死だった。

 

要するに、たくさんの本を買えなければ、手に入れた本を何度も読む。一つのゲームを徹底してやりこむ、そうすることで誰よりもそのことに詳しくなれるし、ということだ。

 

何事も、必ずしも多ければいいというものでもない。

足りない状態も、それをうまく生かせば”得意なこと”を生み出すことができる。

 

記憶力のことに話を戻すと、私の場合、興味深いことに、物凄く感動した本や映画、出来事に関しては、細かな事実の方ではなくて、その時の気持ち(幸福感みたいなもの)の方が強く印象に残っていることが多い。

 

嫌な出来事の場合は、その時感じた感情⇒事実(できごと)の順に忘れてゆき、

嬉しい出来事の場合は、事実を忘れても、感情は長く記憶されている。

 

我ながらなかなかいい仕組みを賜ったものだと思う。

こればかりは、親に感謝しなければなるまい。

 

忘れっぽいからブログを書いている

 

確かphaさんの本だったと思うけど、ブログは脳内にある記憶の拡張装置である、ということが書いてあった。

書くというのは、過去の自分や未来の自分と相談ができるタイムマシンのような行為でもある。

 

というのはなかなか面白い発想だ。

 

 

とりわけ、私のような記憶力の悪い人にとっては、ブログに記録として過去の出来事や本の感想などが残っているのはありがたい。なぜなら、書いたことは、安心して忘れることができるからだ(笑。

 

これも、記憶力の悪さがもたらす副産物なんだけど、一年位前の記事なんかを読み返すと、まるで自分じゃないだれかが書いた文章に目を通すときのように、新鮮に読めて楽しい。

 

また、強い印象に残った出来事というのは、意外とひとつのキーワードで表すことができたりするので、その言葉だけでもブログとして残っていると、それをとっかかりに芋づる式に記憶が呼び覚まされることもある。

 

言語化して、次にいく

 

たまに滅茶苦茶感動したり、驚いたり、嫉妬するような才能に出会ったりしたとき、

「やべえ…」

くらいしか言葉が出てこなくなる時がある。

そんなとき、

一体何がやべえ…のかということについて考え、言葉にしてみる。

上手くいかなくても、強い感情の半分でも3分の1でも言葉化できたら、その出来事は私の中で大分腑に落ちてくるというか、それで、ようやく動揺した状態から日常へと回帰していくことができる、という感覚がある。

 

そもそも、言葉になりそうもない、叫びだしたいような衝動を、ひとつひとつ言葉に変換していくという作業自体が私には快感なのかもしれない。

 

それはまるで宝探しのようで、「これだ!」と思えるフレーズに出会えた時の喜びは、何物にも代えがたい。

 

だから、本でも映画でも、ひとしきり消化したいと思ったら、まずは面倒でも言葉にしてみる。そうやって、無様でも、感じたことの半分くらい言葉に変換出来てはじめて、ようやく次にいける、ということを繰り返している。

 

”苦手のすぐそば”にあるこだわり

 

私が好きな『おもひでぽろぽろ』という作品がある。

 

言わずと知れた有名な作品だから、ご存知の方も多いことだろう。

 

その映画の中で、

主人公の女の子が分数の割り算につまづくシーンが登場する。

その子は、分子と分母をひっくり返して×(かける)ということの意味が上手く理解できない。

 

(なんで、割り算なのにひっくり返してかけるんだろ…?)

 

普通の子供たちは、

「まあ、そういうもんだよね。」

で済ましてしまうことに、なぜか疑問を持ってしまう。

 

もちろん、スムーズに理解できれば何のことはないことなのかもしれない。

でも、そこに引っかかったことがその子の個性なのだから仕方がない。

 

「分数の割り算が上手くできた子って、その後の人生もスーッといける気がするんだよね…」

これもその子のセリフだが、人生はそんなに簡単にはできていないのでご安心あれだ。

 

もし、人生のすべてのことを

「そんなもんだよね、」

で済ませることができたとしたら、何の疑問も持たずに、そつなくこなせたとしたら、

その人生ってどうなんだろう、楽しいのだろうか?ちょっとよく分からない。

 

つまるところ、その人の人生は、

何に引っかかるか、何にこだわるか、ということからはじまって逝くんじゃないだろうか…ということを思ったりしたんだけれど、この辺はまだうまく頭の中で整理できていない…。

 

とりあえず、苦手なことも発想を変えれば、得意なことを見つけるヒントになるんじゃねえの?

ということを言いたかったのでした。

 

それでは、また。