【映画】『南極料理人』”幸福とは何か”という素朴な問いに答える傑作

映画レビュー

この映画を観るにあたって、まずもって、ご注意願いたいのは、

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深夜の、それも腹の空く時間に見てはいけない

ということだ。

 

なぜなら、この映画に登場する飯は、どれもあまりに”美味そう過ぎる”がゆえ。

食事担当として、海上保安庁から派遣された主人公は、日本から4000キロも離れた極寒の地で、そこで初めて見知ったであろう中年の男たちと、一年以上も生活を共にすることになる。

 

まるで、一流の名店の料理人がごとく、皿についた照り焼きのソースを丁寧にふき取って隊員たちに出すこだわり。

それを気にすることも無く、その照り焼きに料理を作った本人の目の前で醤油をドバドバとかける隊員のデリカシーの無さ。

 

このシーンに象徴されるような、隊員どうしの齟齬(そご)を描いたシーンは、映画のそこかしこに見られるのだが、

 

しかし、過酷な環境の中で、唯一と言っていいほどの楽しみであり娯楽である食事時、各々が一番美味いと思える食べ方の流儀に、堺雅人演じる主人公は、何とも言えない表情を浮かべるだけで、苦言を呈することはしない。

 

半沢直樹やリーガルハイでみせた、”できる男”の演技もいいが、

どうにも頼りない優男役を演じる堺雅人が、私はやっぱり好きなのだなあ。

と、この映画を観て改めてそう感じた。

 

「ここでは、息子から金せびられることも無いからね。」

そう言って、あと2,3年くらいここにいてもいいという、医療担当のドクター。

 

家族の束縛から離れ、酒もあり、工夫次第ではそれなりに娯楽も楽しめる。

表面上はオヤジたちの楽園のような雰囲気すら感じさせる観測基地。

 

しかし、それはどこまで行っても上辺でしかなく、オヤジたちが自らの手で必死に築き上げた砂上の楼閣に過ぎない。

 

映画の終盤、和やかな食事のシーンから一転、跡形もなくもぬけの殻となる基地の様子からも

 

「ああ、やっぱ、この人たちは、一刻も早く帰りたかったんだなぁ。」

という心情が見事に伝わってくる。

 

独房のような狭い部屋と細い廊下という閉鎖空間の中で、逃げ場のない極限の自然環境の中で、それを直視しまいと、つとめて明るく振舞ってはいるが、隊員たちとて皆、ヒシヒシと感じていたのだろう。

一見、和やかな雰囲気の中に、おどけて道化を演じている裏に、耐えがたい寂しさと、日本や、そこに残した大切な人たちへの想いを押しとどめた、やり場のないマグマのような感情が一触即発の状態で常に滞留していることを。

 

物資は一通りそろっている。飢える心配はない。

しかし、そこには、日本で当たり前のようにあった日常だけがぽっかりと失われている。

 

それまで、当然のようにそばにいた大切な家族や、何気なく立ち寄れた馴染みの店がそこにはない。

 

だからこそ、その中で、食事という行為は、かけがえのない日常をつなぎ止め、あの場にいたおっさんたちをつなぎとめ、丸く収める装置として、なくてはならないものだったのだと思う。

 

 

食事は日常をつくる。

 

おにぎりを握るしゃこしゃこという音。

それをむしゃむしゃと無言で頬張る音。

 

そんな、普段であれば、何のことはない食にまつわる生活音が、これほど心地よく感じられる映画も、また珍しい。

 

エビフライ!エビフライ!

と子供のように合唱するいい年をした大人たち。

 

ラーメン一つで涙を流するのも、日常のかけがえのなさを描いたものだとすれば、これほど純朴で美しいものはない。

 

日常は、そこにあればあったで、やがては感謝することも忘れ、何気なく過ぎてしまうものなのかもしれない。しかし、失われてみて初めて、その痛いほどのありがたみに気が付く。

そして、必死の思いで取り戻した果てに、やがてはまた、そのありがたみを感じなくなってしまう。現に、この映画の最終盤にも、主人公が

 

「自分は、本当に南極に行っていたのだろうか?」

と、ふとそんな疑問を抱くシーンが描かれている。

 

それが、愚かしくも、忘却という恩恵を授かった人間という生き物なのかもしれないが、

しかし、それは健全なことでもあり、それでいいのだ。

 

ただ、せめて、この作品を観終わった後の余韻に浸る束の間だけは、日常というもののありがたみをかみしめていたい、そう思わされる映画。