いい先生とは、雑談をしてくれる先生のこと。
元日本一のニートphaさんの新刊『知の整理術』という本を読んでいて出くわしたこのフレーズ。
この本は、今までのphaさんの本とは、やや毛色が違っていて、玉石混合のインターネットの海から情報を引っ張ってくる方法であったり、本の読み方+知識を定着させるための効果的なメモの取り方など、今までになくライフハック的な色合いが強くて、読み始めは、ちょっと面食らっている部分もあったのだけれど、
もともとは、ゲーム感覚で勉強して京大に合格してしまうようなインテリジェンスを持ち合わせた方でもあるし、
いずれは、こういう本を書いてもおかしくはないよね、とは思っていたんだけれど。
もともと、しんどいことは苦手だというphaさん。
だからこそ、勉強でも、仕事でも無理せずに、望む成果を上げる方法を考えてきたのだという。
そんな中、冒頭で紹介した一文に話を戻すと、
本の中で、知識というのは、その知識単体ではなく、その周辺にあるいわゆるメタ情報を合わせてインプットすることで印象に残り、記憶にも定着しやすくなるという内容が書かれた箇所があった。
辞書的な定義で、メタ情報と引くと、”情報に対する情報”や”情報に付随する情報”なんてわかりにくい言葉が並んでいるけど、何のことはない、これはいわゆる雑談、余談である。
これは、私の学生時代の話ではあるが、当時通っていた予備校の古文の講師で、
古典の解釈をする際に、やたらと下ネタをはさんでは、女子にドン引きされていたりする小太りの男がいた。
「これは、要するに、夜這いしてヤッちゃったってことなんだよね。デュフフ」
今にして思うと、いろいろコンプラ的に問題がある気もするが、そのおかげか、その古典の内容というのは、今でもなぜか記憶に残っている。
また、同じ予備校の現代文の授業で、講義の前半をほぼ雑談に費やすという講師もいた。
・自分の学生時代の失恋した話。
・同じ予備校内に実は、大学の教授を兼任しているとんでもない男がいるという話。
・自分の学力は偏差値換算だと300はあるという話とその根拠について。
どれも、直接、講義とは関係のない内容だが、
そこで、はじめて、”知的にカッコいい”大人像というものをイメージできるようになった気がする。
自分が言語化できない感覚を見事に言葉化してみせる手際の鮮やかさを前に、打ち震えるような興奮を味わったことも、1度や2度ではない。
よく、教師から学ぶ最良のものは、知識ではなく、学ぶことへの姿勢である。
ということがいわれたりする。
そして、その姿勢、つまりその人の生き方を示す恰好の手段が、雑談や余談の類ではないだろうかと、ちょっと思ったりしたわけだ。
そこから翻って、ブログを書く身としては、いいブログ記事の要件と言うのも、
いい教師がふんだんに織り交ぜては、感受性をもつ学生に対し、学ぶ楽しさを発見・加速させてくれる手練手管とパラレルな関係にあるような気がしてくる。
要するに、求められた知識に加えて、そこにいかにメタ情報としての余談や雑談の類を内包できるかということ。
とはいえ、こうしてブログを書いてみると分かるのだが、知識だけを並べ立てた記事では、書く側もやがて退屈してしまうということは、よくある。
だからこそ、書き続けるうえで自らのテンションを保つために、余計な話をはさんでワザと外してみたりするわけだ。
それは、講師陣にしても同じことで、必ずしも学生のためを思って雑談や余談を展開したわけではないのだと思う。
ただ、学生にも、楽しんで授業をしている、情熱をもって話している姿勢というのは伝わるもので、結果として、無味乾燥な知識の合間に挟まれるよもやま話が、講師・学生の双方にとって有益だったということなのだろう。
というわけで(どういうわけだ笑)、改めて、私なりのメタ情報、余談・雑談の類を大事に記事を書いていきたいと思った次第。
それでは、また。