どうも、タカハシです。
今回は、幸福な人生を歩むためのヒントと題して、いろいろと思うことを書いてみたいと思います。
まず、この記事のアイディアを得るきっかけとなったのがこちらの動画。
なのですが、
う~ん、正直、この動画制作者の”オレはやってるけど、お前らどうよ”的な神目線は正直ちょっと鼻につきます(笑。
まあ、そこはグッとこらえて視聴を継続。
大切なのは、情報に客観的な価値があるかどうかですから。
この動画がどこからソースを得たのか定かではありませんが、
80歳を超えるご老人たちにインタビューしてみたところおよそ70パーセントの人が同じことで後悔しているということがわかったそうです。
それは、ズバリ『チャレンジしなかったこと』
チャレンジっていうとちょっと曖昧な感じがしますが、まあ、
「全員、とりあえず起業しとけ!」
とかそういうことではないんでしょう。
要するに、人生の岐路に立たされた時、
(ついつい無難な選択をしてしまったなあ。
本当は、あっちの方が楽しそうだったのに、やりたかったのに。)
そういう想いを誰しも抱えているということではないでしょうか。
ただ、チャレンジしたから後悔しないとも限らない
たとえば、家族などを抱えて、起業に失敗した方の場合、
「ああ、あそこで無難な道を選んでおけば、今頃こんなことには…」
なんて悔やむことも十分考えられます。実際、それが原因で自殺してしまうという話しも珍しくはありません。
どう生きても、それが結果的にベストだったとは限らないし、そもそも検証のしようがない。客観的にすばらしい人生を歩んだように見えても、その実、本人はそれをどう感じていたのか…そこまで考えると何が幸福かすらわからなくなります。
たとえ、オリンピックで金メダルを取っても、その後の人生は、まだまだつづいていくわけですからね、もし、ゴールした瞬間、燃え尽きるように死ねたら、後悔ゼロの人生になるのかもしれませんが。
極端な話、「あそこで金メダルさえとらなければ…俺の人生は狂うことはなかったんだ。」
なんて結論に達することだってあるかも。そういう人いませんでしたっけ?
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かつて、日本がオリンピックへの出場をボイコットした際、オリンピックに出られなかった絶望から、自殺してしまった選手もいました。
人生をかけて競技に打ち込むチャレンジを続けてきた結果、突然、政治的な理由で進む道が断たれ、自分の無力感に絶望し、燃え尽きてしまったのでしょう。
もちろん、その努力する姿勢は称賛に値しますが、自ら命を絶つという結末は決して幸福なこととは思えません。
やらなかったこと、
例えば、なんで、あの時思い切ってあの子に告白しなかったんだろうとかね。
そういうのは、まあ、誰でも1つや2つ持ってるんじゃないでしょうか。
「え?俺、常にやろうと思ったことは全部試してきたけど?」
そういうあなたは素晴らしい。
これからもどうぞ我が道をブレずに歩み続けてください(笑
後悔することと納得すること
冒頭で紹介した動画。
そのコメント欄を見ていて、こんな言葉が目にとまりました。
「やった結果の後悔は、時が経つにつれて小さくなるけれど、やらなかった後悔は時が経つにつれて、大きくなっていく。」
一概には言えないけど、これは一理あると思う。
真逆のベクトルから生まれた2つの後悔ですが、その後の人生に与える影響が全く違ってくるのは、多分、過去の自分の行動とそれがもたらした結果に対する納得感のあるなしが大きく関係しているのではないでしょうか。
自分なりにベストを尽くした結果、それでもうまくいかなかったのか、それとも明らかにやれたことをやらなかったのか。
やれることをやったのであれば、納得感もあるし、あきらめもつくというもの。
だってどうしたって、その時点では駄目だったことは分かっているのですから。
しかし、やらなかった後悔の場合は、
「もし、こうしていたら…」というような仮定の話がまるで残留思念のようにつきまとい、
その後も長きにわたり自分を苛むことになる、可能性が高い。
となると、やっぱりできるだけ、やりたいことは勇気をふり絞ってやってみるということが賢い選択になるのでしょうかね。
ただ、もし、その時点で敢えてやらないという選択をするとしても、その時は、将来自分がそれによって深く後悔することになるかもしれないということは想像しておいた方がいいでしょうし、その時点でやらないという選択をすることに、自分が納得できるかどうか、一度、じっくり時間をとって自問自答してみる価値は大いにアリだと思います。
1コインの定食を美味しいと感じられるかどうか
皮肉なことに、社会的に成功すればするほど、逆に幸せを感じにくくなるようです。
初めて、1万円のコース料理を食べたとき、
「この世には、こんな美味いものがあったのか・・」
と感動した人も、それが当たり前になってしまえば、もはやそれは日常であり、幸福な体験ではなくなります。
そうやって、人はどんどん幸福に感じられる範囲を狭めていき、しかもどんどん幸福を得るための難易度だけが上がっていく仕組みになっているようです。
もっと有名になりたい。
もっと、いい車に乗りたい。
もっと、いい女性と付き合いたい。
あの経営者に認められたい。
年収1億円以下なんてありえない。
ただ、そこに到達しても、それは登山と一緒で、目的地に到達したという一瞬の満足をもたらした後、すぐに消えてしまいます。
山の頂上にたってみると、隣には自分が上ったよりも、もっともっと高い山がいくつもそびえたっているじゃないか…。
そんな事実を目の当たりにし、また、すぐに欲求不満を満たすため悪戦苦闘する日常が目の前あらわれます。これは、自分で幸福のハードルを意識的に下げない限り永遠に続いていくカルマみたいなものです。
より高度な承認欲求、より貪欲になった物欲、性欲…知識欲なんかも、もしかしたら、これに当てはまるのかもしれない。知りすぎて不幸になるということもないわけではないでしょうから。
意識的に、幸福のハードルを下げてみる
これは、動画内でも指摘されていたことですが、
日々の何気ないことに喜びを感じることであったり、それまで当たり前と思っていたことが全然当たり前じゃなくて、むしろ幸せな、ありがたいことなんだという意識を持つことが、結果的に、自分で自分の首を絞めないための″置き薬″の役目を果たすのではないでしょうか。
ま、要するに、安くても美味いもんは美味い!ってことだけ分かってれば、それでいいということなのかもしれませんけど(笑
もし、すでに取り返しのつかない後悔を抱えている場合はどうすればいいのか
こんな切実な悩みを抱えている人も、いらっしゃることと思います。
私にしたって、いろいろと後悔することはありますし、それはもう過去に戻ってやり直すことはできません。
「もう、俺の青春は戻ってこない。どうやったって、もう青春ドラマのような時間は経験できないんだから、もう残りの人生なんてどうでもいいや。」
そんな風に自暴自棄になってしまうこともあるかもしれませんね。かつての私のように。
でもね、人生ってそれでも続いていくんですよね、やる気がなくなったからといって、簡単にリセットできるわけじゃない。
だから、そういう深い深い消えることのない後悔をせめて成仏させてあげられるように、これからの人生の糧(かて)として生かしてみるというのはどうでしょうか。
後悔したからこそ、気づけたことってあると思うんです。
それは順風満帆な人生を歩んでいたんでは決して気が付かないこと。
たとえば、
家族のありがたみであったり、
人の痛みであったり、
もう2度と同じ悲しみや苦しみを味わってなるものかという決意であったり。
私は、無病息災より一病息災という言葉が好きなんですけど、
まさに一後悔息災ですよ。
後悔は幸福な人生のためのお薬といってもいいかもしれません。
まあ、私は、来世とかも割と信じている方なので、
もし、今回の人生がそんなに褒められたもんにならなくても、
「リセットせずに、よく最後までもがいてみたじゃない、グッジョブだぜb」
と自分で自分を褒めてやる自信だけはある(笑
そして、その人生で失敗したことを、魂の糧として、また次の機会に生かせばいいんじゃないかと。まあ、チャンスがあればですけど。
この辺は、考え方なので、あくまで話半分に聞いていただいて。
死んだあとどうなるのか、真実を知っている人は誰もいませんからね。
「人生は一度きり、やるなら今しかねえ!」
そういう考え方が性に合ってる方は、そう自分に言い聞かせるのもいいでしょう。
ただ、私の場合、この考え方は、あまり肌に合わないというか、常に、時限爆弾かかえてオロオロしている感じというか、あんまり精神衛生上よろしくないというか(笑
「来世もあるよ、だから取りあえず今回は今回で楽しんでね」
という方が気分的に楽なんですよね、ぶっちゃけ。
誰が言ってるかが大事
よく、人のアドバイスを聞くときのアドバイス(笑として
「誰が言ってるかではなく、何を言ってるかに注意しなさい。」
という言葉を耳にします。
まあ、要するに、アドバイスの内容を色眼鏡で判断するなってことなんでしょうね。
ただ、やっぱり誰が言ってるかは、大事だと思うのですよ。
お金持ちになりたいのなら、お金持ちじゃない人のアドバイスは一切ムシしましょう(笑
だって、その人はお金持ちじゃないんですから、お金持ちになる方法を知らないのですから。
あ、知ってても行動に移さないのは知らないのと一緒ですからね?
絵にかいた餅では、お腹いっぱいになりません。
ということを書くと、自分で自分の首を絞めることになるんですが、まあ、正直な意見としてコソッとぶっちゃけておきます(後で消すかも)。
安心してください、後悔しない人生なんてありませんから
自分で書いておきながら、ここまでの話の流れを覆すような、スゲー無茶なトピックだと思いますが(笑、
そうなんですよね、後悔しない人生なんて、ホントはないんですよ。
だって、もし、藤原道長とかビルゲイツとか、アラブの石油王みたいな人生を歩んでいたとしたら、誰だって死にたくないじゃないですか。
つまり、「こんなはずの人生」であったとしても、病気や老いというのは平等にやってくる、今んところはね。
死ぬときに、自分の不摂生にまったく思い当たる節がない人なんていないでしょう。
一回も暴飲暴食、夜更かし、乱痴気騒ぎ(もはや死語か?)をしたことがない人なんているでしょうか?
いたらすごいけど、多分それって
「退屈な人生を歩んじゃった…えへへッ」
っていう別の後悔を生むと思う。
つまり、どう転んだって後悔するんだから、もう後悔なんてどうだっていいって気分で生きてみましょうって話です(笑
頭では分かっていても…
それに、こういう人生の先輩からのアドバイスって、言葉で理解できても、実際に自分がその年齢にならないとなかなか染みてこないんですよね、結局、人は自分で痛い思いをしたり、必要に迫られないと、どんな素晴らしい教訓も、なかなか骨身にまで染みないのかな~なんて思ってます。
関係ないかもしれないけど、日本にずっといて英語ペラペラになったって人と、私は今まで一度も出会ったことがありません。
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話は、ちょっと脱線するんですけど、
誰にも平等に死が訪れるこの世界って素晴らしい
と思うんですよ。
だって、もし、金で不老不死が買えるようになったら、どうなると思います?
もう、金持ちは一生金持ちで、王様は一生王様ですよ、そして奴隷階級みたいな人だけが生まれては死ぬを繰り返して、一生お金持ちに成功者にもなれない世界。
お金持ちや権力者たちは、1000年とか1万年とか余裕で生きて、ますますこの世界のルールや仕組みに精通していくし、自分の地位を盤石にするために余念がないから、もうどうやったって、革命すらおこせない。
そんな数パーセントに満たない一握りの人を除いて希望も何もない世界なんて、私は嫌ですね。
不老長寿を実現することって、事実上、ゆっくりとそんなディストピアを実現させる方向に向かうことだと思います。
それはそれとして、
とりあえず、この動画を視聴し終えた私は、
「そうだ、もっと旅をしよう。そして、できれば、もう少しだけ、恋をしてみよう。」
そんな風に思ったのでした。
それでは、また。
余談その1
次世代のために、何が何でも成功する!って言葉、かっこよす…。
成功する!というとどうしても”私利私欲のため”という感じがしてしまいますが、大切な人のために成功するっていう考え方は、ちょいと、いや大分おっとこまえ。
余談その2
ベンジャミン・フランクリンの
「言い訳のうまい人は、たいていそれ以外のことはうまくないものだ。」
ってやつ、まさに金言ですね。またひとつ、いいの頂きました。