人の話を聞くことの”難しさ”と”奥深さ”のこととか

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最近、ちょっとイラっとした話。

 

ある方から、ドラマの話を聞かされたときに、まあ、精霊の守り人というドラマのことなんだけど(笑、

 

その際、私が

「ふ~ん、それで、どうして王子は、実の父である王に狙われているの?」

などと、見ていない人間なりに、相手が熱っぽく(かつ若干アバウトに)あらすじを説明する中で気になったことを聞いてみると、

 

「アンタさ、あれはファンタジーなんだからそんなそんな風に、歴史考証がどうだとか現実との整合性がどうだとか、考えたってしょうがないでしょ。」

などと、頓珍漢なお叱りが返ってきたりした。

あ~なんだろう、このモヤモヤした気持ち(笑。

 

きっと、その人は、私が何でもかんでも理屈っぽく考えると決めつけた上で、自分のストーリーの上の理解の曖昧さを攻撃されたと感じたのだろう。

人間は、批判されることにはとても敏感な生き物で、だからこそ、とっさにそんな的外れなことを言ったのだとすれば分からなくもない。

とまあ、こんな卑近な例から始めてしまったが、

 

つくづく、

人の話をちゃんと聞くというのは、難しいことなんだなと思う。

 

もちろん、ただ耳から聞いて日本語として理解すればいいというわけではない。相手の話を聞くとは、相手への先入観をいったん脇に置いて最後まで話を聞くということに他ならない。

 

ということを、先日、つぶやいた内容とも被るのだが、聞くことをテーマにした印象的な講演のダイジェスト映像の内容などもフラッシュバックさせつつ、あらためて考えさせられたりしたのだった。

 

「あらかじめ、答える内容や解答を用意しながらでは、相手の話をちゃんと聞いていることにはならねえぞ。」

 

う~む。

簡単なようで、なんと難しいことか。

 

先ほどの講演者の話によると、職場を含めた人間関係のトラブルのほとんどが、この”聞く力”の不足により引き起こされているのだという。

 

まあ、そうでしょうね…虚心坦懐、ゼロフラットで相手の言葉を聞けている人なんて、ほぼほぼいないと思われるもの。少なくとも、私は、そんな御仁と過去に出会ったこと…あったっけな?(笑。

 

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答えを用意しないで、相手の話を100%聞く

 

こう書くとシンプルなことのようだけど、

この境地に至るためには、実にいろいろな要素を兼ね備えなければならない気がしてしまう。

 

まず、

・相手へのポーズではない興味関心を持たなければならないだろうし、

・話を聞きながら相手にイラっと来たらもうアウトだろうし(笑、

 

要するに、その瞬間は、自分のことをいったん脇に置いて、相手のことに興味を持たなければならないわけで、そのスイッチの切り替えというか、その際の自意識の沈め方というのは、私を含め、自意識が肥大していると言われる現代人にとっては、いろいろと至難のわざなんじゃいの?と感じるわけです((-_-;)。

 

”聞く力”と聞いて思い出される、モモという小説。

小説の中で、主人公のモモは、誰からも愛され、自然と周りに人が集まってくる女の子として描かれている。

 

そして、このモモが皆から慕われる理由は、彼女が、天性ともいえるようなずば抜けた”聞き力”の持ち主であるからだ。

 

モモは、相手の話に口をはさむことなく、誠心誠意、それもいかにも興味津々といった様子で最後まで真剣に耳を傾ける。

すると、相手もついつい、今まで他の誰にも打ち明けられなかったような悩みを語りだすのだ。

モモの元に話をしにくる人々の中には、当然、親ほども歳の離れた大人たちも含まれており、

彼(彼女)らは、到底、子供には理解できないような夫婦の悩みなんかも、モモに打ち明けたりするのだけれど、もはや答えなんて最初から得られなくても構わないといった感じで、みな最後には、みな満足した様子で、一様に晴れやかな表情でモモの元を後にする。

もう、しっかり話を聞いてくれるモモがいるだけで、ハッピーなのだ。

 

 

昔は、みんなちゃんと話を聞けていた!?

 

人の話を聞く…しっかりと、最後まで。

これって、多分、小学生や園児が最も得意とするところではないだろうか。

 

純真無垢な瞳で、好奇心に満ち溢れた心で、相手の話を聞き、いろんなことを吸収していく。

子供たちが天使と呼ばれる理由も、このような振る舞いと、たぶん、無縁ではないだろう。

 

それが、大人になると、自意識やら余計な先入観やプライドや経験なんかが邪魔をしだして、本当の意味で相手の話を聞けなくなってしまう。

 

いや、本当は、ちゃんと話に耳を傾けたいんだけれど、それが大事なことも頭では分かってはいるんだけれど、自分のことで精いっぱいで、人のことまで気を配る余裕がない、そういった方が正確かもしれない。

 

しかし、そのような考えが、逆に、周囲の人との齟齬やトラブルの原因になっているとしたら、なんとも皮肉は話ではないだろうか。

つまるところ、人間関係なんて、もともとシンプルだったものを自分でこんがらがった状態にしているだけなのかもしれない。原因は、結局、他者ではなく、自分の中にあるのだともいえる。

 

とはいえ、私にしても、いろいろ一筋縄ではいかないなと思う部分も無くはない。

 

例えば、明らかに誤解されているなと感じる発言には、話の途中でもツッコみたくなってしまうし、当然、イラっとすることだってある。

司馬遼太郎の小説に登場する坂本龍馬は、議論は不毛」といったけれども、

奇しくも互いに考えをぶつけ合うような場面になれば、聞いているだけでは一方的に攻撃されているように感じて面白くない。

これは、動物的な防衛本能なのかどうかは分からないが、攻撃されればどうしても反撃に転じたくなる衝動は、誰にだって多少なりともあるものなのではないだろうか。

まあ、だからこそ、それが厄介なものではあるのだけれど。

 

また、

自分の考えを、もっというと自分という人間を正しく理解されたい。

そんなエゴが足を引っ張って、相手の話を聞く心の余裕を奪っていると感じることもある。

 

冒頭のドラマのあらすじ談義のエピソードに戻れば、やっぱり、何の気なしに素朴な疑問を口にしただけで、

(ああ、この人は、普段から私のおでこに『なんでも間でも理屈っぽく、整合性がどうとか考えてるや~つ』というラベルを張って見てたんだな(#^ω^))

 

ということが露見すれば、ちょっくら、

 

「そりゃ、お前さん、さあ…」

と、いろいろ言ってやりたい衝動にも駆られるというものだ。

 

まあ、実際には、悲惨な結果になるのは目に見えているので、言わないでこうしてブログを書いているということなんだけど…。

 

もちろん、

それもそれでどうなの?

ちょっと、節操なくない?

というツッコミは当然あっていいモノだと思う。

 

ただ、日常の喜怒哀楽のすべてを糧に文章をひねり出すのがブログを書くという芸当なのだから、仕方がないと言えば仕方がない。

敢えて言うなら、私をイラっとさせたその方の運の尽き、貧乏くじを引いたと思ってもらうほかあるまい(笑

 

もし、シンプルに人間関係を円滑にすることだけを考えるなら、相手が自分のことをどう思おうが気にせず、自分は相手の話をしっかりその意図するところまで理解して、心情を汲んであげることが大事なのだとは思う。

 

ただ、最近では

 

「それって、なんか上から目線じゃない?」

的な入り組んだ批判の仕方みたいなものもあって、ほんと、いろいろとメンドクサイ。

まさに、いまの時代は上でも下でもなく、ゼロフラットにポジションを設定しなければならないようである。

 

「なあんだ、子供んときにできたんだから、大人なら、意識すればすぐにできるよねb」

 

もし、そんな風にお考えの方がいらっしゃったら、

もう一度、初めに戻ってこの記事の内容をしっかりと理解していただきたい(笑

 

私は、

人間にとって、何かを身に着けるのと同じくらい、何かを捨てることは時に非常に大切なことであると同時に難しいことでもあると思っている。

 

今回のテーマである、聞くことはまさにその典型で、

すでに、いろんなものを身に着けてしまった大人が、再び聞く力を取り戻すためには、

実にいろいろなものを手放さなければならないな~と感じるのである。

 

しかも、

そのどれも、苦労して身に着けた(と本人は思っているはずの)もので、どれも手放すのはけっして楽ではない、という厄介な仕様ときている。

 

ただ、今回お伝えしたような内容を普段から意識しているかどうかで、今後の生活の仕方であるとか人の話を聞くときの態度だとか、

 

「あ、今、自分は答えを用意した…ってことはちゃんと相手の話、聞けてなかったわ」

みたいな意識づけにつながることになれば、少しずつでも聞き上手に近づいていける可能性も出てくるのかな、なんて思ったりもするわけで。

 

というわけで、さすがにこれだけの分量を記事を物せば、書き上げるころには、もはや怒りもすっかり沈静化しているよね、という話でした(そういえば、そんな理由で書き始めたんだっけか…)。

 

それでは、また。

 

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