もしこの世界が壮大な仮想現実でしかないとしたら…

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この世界は、所詮手の込んだフォログラムに過ぎない。

たまにそんなことを考えることがある。

 

私という人間自体も私という自我を持っていると錯覚させられてるだけのフォログラムなのかもしれないし、そもそも、私自体がどういう存在なのかも、正直曖昧でよくわからない。

 

私は両親から生まれて、その前に祖父と祖母がいて…ということになっているけれど、私には生まれた時の記憶もないし、あったとしても、それさえ何者かがプログラムしたものなのかもしれない。

 

たとえば、私が生きている(ということになっている)世界も、

私が見まわす360度…まあ、上下とかの全方位見まわせる範囲すべてを精巧なフォログラムあるいはVRとして構築してしまえば、私はそれを世界だと錯覚するだろう。

 

あとは、私が直接触れることのできる対象にだけ、質感や匂い、味など五感で感じられる情報を付加すればいい。

 

そうやってできた仮想現実の中では、当然、私と同じ大きさ(立場)の(他人という)個人が多数同時並行的に生きているようにみえるが、それが、もし、私が目の当たりにしている仮想現実をより現実的にみせるだけのただの張りぼてだとしたら?

 

私に優越感を、劣等感を、敵対心を、親近感を、愛情を、そして孤独を抱かせるために用意されたものだとしたら?

 

そういった感情をエネルギーとして何者かが養分にしているというのは、いかにもSFチックな話だ。

 

その実、このフォログラム世界は私専用で、私以外の他者が牛耳っているかのようにみせかけているけど、結局、私の選択でしか変化しない仮想現実だとしたら?

 

たとえば、選挙にいく、いかないという行動ひとつを考えてみても、

仮に、行かない最たる理由として

「自分が1票投じたところでどうせ世界は何も変わらない。」

という考えがあるとしても、

その後、選挙にいかないという選択をした私(だけ)の、仮想現実が再構成されるだけで、状況はいっこうによくなるわけがない、という可能性すらある。

 

では、反対に、もし、私が選挙にいくという選択をした場合はどうか。

その時、願うのは、私と同じような世代が選挙に大勢行くような現象が起き、それで選挙参加者の年齢層にも変化が生まれ、もっと若者だとか、これからの世代が生きやすくなるような、いや違うな、結果として、私が生きやすくなるような仮想現実が再構築されていくこと。

なぜなら、これは基本的に、私だけの仮想現実なのだから。あくまで仮定の話ではあるけれど。

となると、大げさではなく、文字通り、世界の趨勢は、私の行動いかんにかかっているわけだから、選挙にいくことで世界を変えることができるなら、私が選挙に行かない限り世界は、ある意味では永遠に変わらないということになる。

ということで、今日か明日、それを確かめるために期日前投票に行ってこようと思ってます。なんだ、早々と宗旨替えか…

いやいや、人はいつでも一瞬で変わるものだし、これもあくまで実験のひとつとして。