重要なのは、食べることではなくて、飛ぶことだ。いかに速く飛ぶかということだ。
餌をとるために飛ぶのではなく、
飛ぶことそのものを生きがいにするカモメの話。
ジョナサン=リビングストンという一羽のカモメは、
「カモメが飛ぶのは、餌をとるためで、生きていくためで、それ以上は必要ねえんだぞ?」的な年長者らの忠告にも耳を貸さずに、日夜新たな飛行法の発見に明け暮れる。
読み始めた当初、これは
バンプチキンのグングニル的な話なのかと思っていた。
つまり、無鉄砲と思われた若者が、やがて財宝を発見し、それまでバカにしていた仲間たちを見返す話。
つまりは、運に恵まれ勇気を兼ね備えた一羽のカモメの物語。
たまたま恵まれた資質を持ち合わせた若者が、出会いやいろいろな巡りあわせによって成功する。あるいは、夢破れる。
前者ならば、当然参考にならないし、後者であれば、ただの現実をなぞっただけのペシミズムに過ぎない。だから、どっちにしろ一般化できないし参考にもならないと。
それでも最後まで読めたのは
良い小説はどこか自動筆記されたかのような雰囲気を持つものだ。
それは小説の神様がひとりの作家をしてある種の霊感を与えて書かせた匂い・痕跡のようなもの。
一般的な小説が、作家の苦労の跡が随所に見受けられるのとは対照的である。
というと、むしろ余計な傷跡が無いことの方が、いい小説の条件と言えるのかもしれない。無理やり書き上げたのではなく、生み出されるべくして生み出されたというか。
当初の雰囲気とはうって変わって
物語の序盤は、イノベーションを起こす若者的なというか風雲児というか、
ありがちなテーマで展開する話かと思いきや、中盤から後半にかけては、より観念的、内省的な話へと展開していく。
ジョナサンは、飛び方の研究を通じて、やがて自由とはなにか、生まれてきた意味とはなにかといった普遍的なテーマについて学んでいくこととなる。
何かと似てるな…。と思って最後まで読み進め、訳者である五木寛之氏のあとがきを見て、なるほど、そうか。と納得。
そう、星の王子様だ。
この本の作者であるリチャード・バックもサン・テグジュペリと同様、プロの飛行機乗りだというが、それならと、カモメと飛行法をテーマに小説を書いたことにも納得した。
当初、毒にも薬にもならない少年向けの冒険譜かと思いきや、結局最後まで読み通せたのは、所々にカモメの写真が散りばめられたこの短い物語が、命にまつわる普遍性を多分に含んでいるからに他ならないのではないかと思う。
そこは、この物語の巧妙なところというか、
当初、飛行法の開発や仲間を見返せるかどうかといったいわば成功or失敗という価値基準で展開されていたはずの物語が、
いつの間にか、幸福とは?自由とはなにか?
という目には見えない大切なものを探す、いわば成長の物語へと変化していく。
こうなると、
「そんなん、一部の天才とか、運ゲーに勝った奴だけのレアケースだろ?」
と揶揄することもできず、
「う~ん、誰でもしっかり手順を踏んでいけば、そういう境地までたどり着けるのかもしれない。」
と自分のこととして考えざるを得なくなる。
ということで、まんまと読了する運びとなったわけだ。
説教ジジイになっちゃったジョナサン
最後に一つ文句というか、教える立場になってからのジョナサンの上から目線は何とかならなかったんだろうか?
年齢を重ねて老成したのは分かるんだけど、序盤で、掟を押し付ける長老をあれだけ悪者のように描いておきながら、結局ジョナサン自身が最後はそんな長老の一人になり果ててしまったようで、ちょっと残念だった。
どうせなら、ジョナサンには最後まで真摯に求道し続けるヤングマンのままでいてほしかったかな。
ただ、本自体は薄くとも、一言で言い表せるような薄っぺらい内容でないことだけは確か。
現代のバイブル…というといささか大袈裟だけど、人によっていろんな読み方ができる本であるのは間違いない。星の王子様好きなら、肌に合うのでは。参考までに。
それでは、また。