正直、見始めた当初は、それほど期待していなかった。
(まあ、どうせアイ〇ンマンを舞台を日本にしてアニメ化したやつでしょ?)
その程度にしか思っていなかった自分に、今ならば、忸怩たる思い…。
ただ、ワンパンマンに続くノット・イケメン、しかも”じーさん”が主役を務めるレアなアニメ作品として興味を惹かれたくらいで…。
さらに言うならば、そのじーさんの声を担当するのが、小日向文世さん。
「え?なんか声高くない?抑揚も無くて棒読みっぽいし…」
トトロで父親役を務めた糸井重里さんのように、
最初はどうも違和感バリバリだったけど、聴いているうちに、あの妙に声優臭くない、いい意味で垢ぬけてない感じが、まるで素朴な味噌汁のように、やがて心地よく感じられてくるようになった。
そして、敵役として登場する青年・獅子神 皓を演じる村上虹郎も、飾らない演技で物凄く現代のリアルな若者の雰囲気を感じさせてくれた。
普通の人間が、ある日突然”神”になったら…
犬屋敷 壱郎にしろ、それえと対をなす存在として描かれる獅子神 皓にしろ、
どちらも、もとはどこにでもいるいわば”普通”の人間なのだと思う。
ただ、不幸な事故によって、神にも匹敵するような強大な力を得さえしなければ…。
体は小さく、非力で(しかも、58歳には見えないほど老けていて)、小市民然としていて、影の薄いうだつの上がらないサラリーマンで、
だけど、誰よりも家族思いで、実は正義感が強い。
そんな初老の男と、
自分の大切な人以外はどうでもいいという、もしかしたら、口には出さないだけで多くの若者が隠している本音を代弁しているかのような青年。
顔に深い皺の刻まれた白髪の老人と
端正な顔だちのイケメン。
分かりやすい対比。
そして、物語は、美しい大量殺人鬼である獅子神と、それを阻止すべく奔走する犬屋敷という構図で描かれる。
その所業だけをみれば、まるで天使と悪魔のような二人だが、向かうベクトルは真逆ではなく、むしろ同じ方向に向いていたのではないかという気さえする。
獅子神も、気まぐれのようではあるけれど、一応自らの力を使って、難病患者を救ったりするし。
あの辺は、
単純に善悪で片付けんじゃねえぞ?
っていう製作者サイドからの露骨なメッセージなのだろう、と勝手に解釈。
もちろん、犬屋敷壱郎の場合には、自分の正義や信念を貫きたいということもあったのだろうけど、それよりもまず強く願ったことは、シンプルに
自分の一番大切にしている家族を守りたいという事。
それは、物語が常に家族や2人と近しい人物たちを中心に描かれ、それ以外のキャラクターは、名前さえ明かさないモブキャラのような登場の仕方(てか、ほぼ斬られ役?)をすることからも明らか。
そういった思いを物語調にテーマとして変換するならば、
大切な人と生きるために、強大な力を手に入れた人間は、どんな道を選ぶのだろうか。
ということになるのかもしれない。
その思いに関しては、獅子神にしても一緒で、もとをただせば、彼も、母親を誰よりも大切に思っていたのだし、その母親を自殺という形で失った直後から、暴走に拍車がかかったという形で描かれてもいる。
強大な力を持つこととそれを扱う事の難しさ
もし、私が二人と同じような境遇に置かれたら、いったいどのように行動するだろう。
それは、このアニメを見た人ならば、考えずにはいられないテーマの一つではないかと思う。
別に、無理に自分の身に置き換える必要はないのだけれど、
ムカつくことに、それをせずにはいられないほど、この作品は見終えた私に強烈な印象を残しやがった(笑
たとえば、もし自分が国をも凌駕するような武力を手に入れて、なおかつ自分の周りの失いたくない人以外どうでもいいやと思っていたとしたら、ほんの好奇心から獅子神と同じような行動に出たとしても不思議ではないように思う。
普段なら、法律や暴力に対する恐怖や、その他もろもろの枷によって封じ込められている衝動が一気に噴出することは、むしろ自然なことではないのかとすら思う。
これは、私のある偏見から生まれた疑問だが、
一体どれだけの人が、自らのモラルと良心だけで、自らを正しい方向へと導くことができるだろうか。
それはこの物語の中でいうなれば、獅子神としてではなく、犬屋敷壱郎として生きることを意味する。
だからこそ、犬屋敷壱郎という人物は尊く稀有なのであり、間違いなくヒーローなのだ。
その一方で、獅子神を悪と断ずることは、私にはできない。
「俺にだって、死んでほしくない人・・・しおんと直行には死んでほしくないんだ。」
最後にそう言い残した獅子神浩。
彼は、もしかしたら、他の多くの人に備わった感性の一部が、生まれつき欠落していたのかもしれない。
たとえば、自分が殺したどうでもいいと思う人間にも、自分と同じように大切な人がいて、その人が死んだら泣いて悲しむ人がいる…ということへの想像力とかが。
だけど、他の多くの人と同じように、彼だって、ただ、自分が大切に思う人と最後まで一緒に生きたかっただけなのではないか。
少なくとも、彼の中に、禍々しい悪意のようなものは最後まで感じられなかった。
まあ、だからこそ、無邪気に人を殺せるからこそ、
サイコパスと断じられる多くの大量殺人鬼と重なる恐ろしさがあるのかもしれないけれど。
やっぱり、僕はアトムの子供なんだ
物語の後半、犬屋敷壱郎が、空を飛びながら、まるで子供のように号泣するシーンがある。
「僕は、この日のために、こうやって機械になって、多くの人を救うために生まれてきたんだ。」
きっと、世代的に、彼にとってのヒーローといえば、アトムだったに違いない。
困っている人がいたら、飛んで駆けつけ、
どんな強大な悪にも怯まず立ち向かい、最後は必ずやっつける。
そんな少年の頃から胸の奥にしまっていた憧れを、老いてなお実現できた喜び。
非力でも、
体は小さくても、
それでも、懸命に生きてきた自分の半生を誇りに思うことができる。
機械の体になって初めて、
そうなる前の自分をもっと認めてやってよかったんだ
そう思えるようになったと、強くなりたいと願う息子に向かって穏やかに想いの丈を語るシーンは、大げさでもなんでもなく、アニメ史に残る名シーンの一つだと思った。
強大な力を授かった2人のキャラクターを通して見えてきたのは、それを扱う人間の想いだった。
多くのヒーローアニメが過去から現在にかけ描かれてきて、
そして、そこには多くの魅力的なキャラクターたちが登場してきた。
その多くが、圧倒的な強さによって私を惹き付けてきたのだが、犬屋敷壱郎に感じる”強さ”は、圧倒的な暴力以外の、もっと別の何かである気がする。
つまりそれは、”人としての強さ”というヤツなのか…
人の命を奪う瞬間にだけ、生きていることを実感できた男と
人を救った瞬間にだけ、生きていると感じることができた男。
どちらも、ある意味では正しく、ある意味では異常で、だからこそ選ばれた存在なのだと思う。
ゆえに、物語の陰と陽を織りなすにふさわしい”特別な”キャラクターであったに違いない。
まだまだ、言いたいことは山ほどあるのだが、物語を見終えた先の、”何か書かねば!”という初期衝動の棺桶としては、このくらいがセキノヤマというやつだろう。
では、格好悪いじーさんやおっさんが主役のカッコいいアニメが大好物な、タカハシ(@revolog_T)がお送りしました。
それでは、また。