いやはや、やっと読み終えた。
ちまちまと読み進めて、先ほどやっと読み終えた、この世界文学史上に残るであろう怪物的な大作。
6代にわたるブエンディア家の盛衰を描いた1大叙事詩。
南米の架空の街を舞台に、これまたブエンディア家という架空の一族の栄枯盛衰をよくもまあ、ここまで現実感を持って描けたものだと、いい意味で呆れ果ててしまう。
作者は、きっと、いや絶対変態だ(笑
天才なんて生易しいものじゃない。
じゃなきゃこんな物語書けっこないもの。
と悪態めいた言葉を書き留めながら、
過去に私が下書きしたメモを見ていると、こんな記述が見つかった。
ーーーーーーーーーーーここからーーーーーーーーーーーー
しかし・・・よくもまあ、ここまで繰り返し同じ名前を付けるものだと作者の嫌がらせっぷりにある種の感服を覚えつつ・・・読後のメモがわりに印象に残った点を少々。
とにかく、登場する女たちのなんとも個性豊かなこと。
何でも仕切りたがり、100歳を超えてもなんにでも首を突っ込みたがるウルスラを筆頭に、姉の美貌と意中の相手との恋路を邪魔されたことに嫉妬しまくり、と思ったら、その意中の相手が自分の方を振り向いたらすげなく振るというアンビバレントな行動をとってしまうアマランタ、最後まで自分だけが高貴な身分で周りは田舎者の下民のように蔑んでいたイタい女フェルナンダ。
英雄色を好むの言葉通り、ちょいちょい愛人もつくるブエンディア家の男たちだけれど、どうもこの物語、愛人よりも正妻の方が、物分かりが悪いというか、人間としてどうなの?って思う描写が多い気がする。
フェルナンダとペトラ・コテスなんか比べると、私なんかは断然ペトラ派っすね(笑
もちろん、始祖にあたるホセ・アルカディオ・ブエンディアや、反乱軍の大将として政府軍とゲリラ戦を展開し、戦争の英雄となったアウレリャノ・ブエンディア大佐、あるいは、その兄で、船で世界を7周半もしたとうゴリマッチョ、ホセ・アルカディオなど、ユニークな個性を持った人物は登場するのだが、
あるものは、早死にしてしまったり、また、あるものは晩年は、それまでの激しさとは打って変わって自らの世界にこもり、孤独な隠棲の日々を送ったりと、どこかさっぱりと静かな印象。
それに比べると、淡々と流れる時間に抗うかのように、あれやこれやと立ち居ふるまう女性陣の内外の描写が実にかしましい。
ゆっくりと流れる大河の流れの中で、女性陣がひたすら、波風を立てているというか、バシャバシャと水面に波紋を作っているというか。
物語の最初から、終盤まで登場し、
不老不死の魔女を思わせるウルスラを筆頭に
「まだ、出てくんのかい・・・いい加減引退しろよ(笑」
読んでいて、思わずそうツッコみたくなるほど、女性陣の執着(何に対してのだろう)はすさまじく、何だか圧倒されてしまった。
”100年の孤独”とはいったい何だったのか
ただ、同じ一族の話とはいえ、
人間って100年たっても、まるで成長しねえんだな・・・というか、同じところで悩んで、最後はけっこうあっけなく死んでいくんだなというのをしみじみと感じさせられた。
単純にいえば、この本のテーマは
人は、永遠に孤独であり、それが消えることはない。
どれだけ、繁栄しようとも、栄華を極めようとも。
そして、晩年は、程度の差こそあれ、すべからく惨めなものである。
それを、数多登場する人物たちの行動や、それに際しての心理描写を通して、繰り返し繰り返し表現していくわけだが、よくもまあ、飽きずに描き続けられたものだと感心する。
もし、作者の中で、この物語が何の過不足もなく、これで完結したと思えているのだとしてら、私にはわからない壮大な見取り図があったに違いない。
最終的に、フリー〇イソンを設立しただとか、初代の大統領を輩出した家の話でしたとか、そういう明確なゴールを設けずにこれだけの時の流れを早回しすることなく描き切った執念はすさまじいの一言。
だって、私には、色違いのキャラが、多少設定を変えて、間を埋めるために立ちまわっているようにしか見えない箇所がチラホラあったので(笑
ーーーーーーーーーーーーここまでーーーーーーーーーーー
なるほどね、数か月前の私は、こんなことを考えていたのか…。
今となっては、上のメモを書いた当時ほど、この物語に登場する女性たちへの強い感情や違和感は持っていない。
それよりも、感じるのは、やはり最終盤(ラスト10ページほど)のそれまでの出来事すべて消しゴムで消し去っていくかのような、唐突で、ある意味ではあっけないなとさえ感じる展開のこと。
一族がその解読に奮闘し、最後には見事アウレリャノが解読に成功するメルキアデスの羊皮紙に書かれていたのは、ブエンディア家100年の行く末についての予言だったというオチのようなものはあるにはあったのだが、じゃあ、それがカタルシスをもたらすのかというと、そうではない。
いつの頃だったか、この本の最初の一ページ目を恐々とめくった日には、
ーーーきっとこの本を読み終えるときには、
人類にかかわる普遍的な何かをつかめるんじゃないか
という淡い期待のようなものを持っていたように思う。
少なくとも、間違いなく世界文学の歴史に残る傑作の描き出す世界を踏破できた!という満足感は得られるものとは思っていた。それが何なのかは検討もつかなかったけれど。
ただ、読み終えた私には、これでようやく、一族の蛮行・奇行に振り回され、心悩まされる日々から解放されるのか…という安ど感と開放感こそあれ、満足感や達成感といった類の感慨は驚くほど乏しいものだった。というかほとんど感じられなかったとさえ言っていい。
話はやや前後するが、
今まで書いたことに加えて、この本を手に取った動機を上げるなら、
”100年の孤独”という意味深なタイトルに惹かれて。
ということもあるにはある。
しかし、この小説が、”孤独の中で懸命に生きる人々の姿を生き生きと描く”などとった、明らかに啓発的な意図をもって書かれたといったたぐいの温(ぬる)い小説などではないことは、読み始めて早々に嫌というほど思い知らされることになるわけだが。
振り返ってみて、一言でこの小説のテーマを表現するなら、
それは間違いなく”孤独”であると断言できる。
しかし、それは果たしで誰にとっての孤独だったのか。
もちろん、作品に登場するすべての人物が多かれ少なかれ孤独を抱えている。
それはつまり、100年にわたり、執拗に近親相姦を繰り返しては、呪われたように同じ名を名乗る子を産み落とし続けた孤独な一族の物語でもある。
だが、意図したかどうかはともかく、本当に作者が描いた孤独は、やはりクライマックスに待ち構えているのだと私は思うのである。
物語の最後、一族最後の生き残りであるアウレリャノは、ついに(それも不意に)予言の書の読解に成功した直後、唐突に最期のときを迎える。
ここで、一族は長きにわたるその歴史に終止符が打たれ、時を同じくして、彼らの歴史を刻む故郷マコンドの町もまた、激しい暴風雨によって、この世から消え去ってしまう。
文字通り、彼らの存在は、一瞬にしてこの世界から葬り去られてしまうのだ。
なんと唐突なラストか。
これまで、南米の湿気と熱気を帯びた空気のような、
息の詰まるような濃密な時間を経てきた果てに待ち構える結末としては、あまりにいい加減で、読者は置いてけぼりもいいところである。
ただ、私はこれも、ある意味では、作者が意図したものだと思う。
この、まるで突如として荒涼とした平野にひとり取り残されたような虚無感は、
読者に強烈な孤独を感じさせる。
そう、つまりこの本は読み手の一人一人が孤独な存在であるということを痛烈に想起させるものなのだ。
100年わたる一族の興亡を通して、
読者は皆、最後に自らの孤独と出会う羽目になるのである。
もし、仮にこの物語を手に取った理由として、
孤独とどう生きるか
という人生の一大テーマに対する何らか回答のようなものを期待して…というようなことがあったとしたら、
最後まで読み進んで、結局は、自分が孤独な存在であるということを知りました、ハイおしまい。
ということになってしまうのだから、たまらない面もあるだろう。
とても、めでだしめでだし。とはいかない。
でも、だからこそ、人類史に残るような名作なのだともいえる。
それは、間違いなく人類にとっての普遍的な真実を描ききった作品であるという意味においてだ。
とりあえず、この本は、しばらく私の本棚で眠りにつくことになるだろう。
また、この物語の持つ言いようのない魔力によって、いつか吸い寄せられるように再び手に取るその日まで。
それでは、また。