【ハンターハンター】メルエムとコムギの最期はいつだって涙腺崩壊(泣

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久々に、ハンターハンターのキメラアント編を読み返した。

 

いつもながら、

コムギとメルエムとで紡がれるラストシーンは、ガー不で、

ほぼ100%泣かされてしまう。あそこでセリフだけの演出とか、マジ反則(泣

 

 

 

 

 

というわけで、今回は、感動のラストに一人こっそりと枕を濡らした後で(笑、

「え?てか、なんで泣いたん?キモいんやけど?」
という自問に何となく自答してみたいと思う。

ま、答えになるかはともかくとして、どういう経緯で感情が昂ったのかとか、その辺をちょっくらひも解いてみたいかなと。

 

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強さってなんだろう?

 

もともと生物の進化の頂点に君臨すべく生み出された最強生物キメラの王と、

軍議だけが取り柄の盲目の少女コムギ。

 

みんな大好き強さランキングでいえば、

SSS メルエム

E コムギ

 

みたいになってもおかしくはない。

 

まあ、そうなったら、

個人的には「強さって何かね?」とエラソーに疑問を呈したくはなるだろな。

 

ただ戦闘力でいったら、

鴉につつかれても、ただ黙って耐えることしかできない。

それがコムギなのです。

 

メルエムは、そんなコムギを庇護しながら、

「軍議強くてもお前、弱すぎるな・・・」

 

などとは言わずに、図らずも彼女の存在を通して、強さとはなにか?

という疑問の芽を己が裡(うち)に育て始めることになる。

 

 

 

 

これは、イメージの話だけど、

たとえば、ゲームセンターで不良が自分を負かした相手を店の裏に連れて行ってボコボコにするように、

腕っぷしに自信のある者ならば、知力で自分を打ち負かした相手を暴力でねじ伏せて留飲を下げるということをしがちですよね?

これって別に偏見じゃなくて…ただの一昔前のゲーセンあるあるですよね?

 

ましてや、生物最強に君臨するメルエムなのだから、

「解せぬ、というよりこんな結果、認めぬ!こんなものは所詮、下等生物の稚戯に過ぎぬ。」

などと宣わって、コムギを瞬殺…なんてことだって、やろうと思えばできたはずなのだ。

 

しかし、もちろん富樫は、メルエムにそうはさせない。

 

むしろ反対に、

マインドゲームとはいえ、最強の王をして自分を打ち負かした少女に興味(敬意)を抱かせた。

 

そして、態度こそ尊大なものの、それ以後、彼女を大切な存在として誰よりも厚遇するように仕向けた。

 

レボログ
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ニクイぜ。

 

 

最強であるがゆえの孤独

 

バトル漫画で割とよく描かれるテーマとして、

「自分を打ち負かしてくれる相手こそ、最愛の友である。」

というものがある。

 

メルエムも、最強である者の宿命として、当然、このようなマインドセットを持ち合わせていたのだと推測することができる。

 

 

先ほど指摘したように、

”肉体的強さ”というまさに強さランキング御用達の物差しに照らしたら、

メルエムは文句なく最強に違いない。

 

現に、ハンターハンターという作品は、

それまで最強と目されていたネテロすら一蹴してしまった彼の登場によって強さインフレの極致に達し、

ドラゴンボールに代表されるような、物語が進むにつれてさらなる強敵が登場し、それに合わせて主人公も成長していくというセオリーが使えなくなった。

 

無論、次のエピソードである暗黒大陸編では、肉体的な強さではない、知略・戦略的強さ、あるいは念能力の奥深さという軸で話を展開しようとしているようだが、なかなか苦戦しそうな予感しかしない。

 

レボログ
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てか、翼君超えでキャラ数全一目指す!とか…ダレトク…ってか、もう、よくね(笑?

 

さて、話を戻そう。

 

戦闘力最強の王メルエムも、軍議では、コムギという少女に敵わなかった。

 

しかし。

たかが盤面の勝負。ボードゲーム。

などと、メルエムは決して言わなかった。

 

どんなジャンルであれ、自分より秀でた能力を示す相手に対し、

素直に敬服し、最強ではあっても決して完ぺきではない自分の中に宿る未熟さを認める心を持ち合わせていたのだ。

 

これは、なかなかできることではない。

実在の人物はもちろんのこと、漫画のキャラクターですら滅多に。

 

 

かくいう私が、メルエムというキャラクターを好きになった理由の一つ。

それは、尊大な態度の奥に潜む謙虚さと、それに加えて彼が

コムギに対して見せたような、多様な価値を受け入れる器の大きさを持ち合わせているからなのだと思う。

 

ふと、

(できることなら、王とコムギが主役のスピンオフ作品も見てみたい・・・)

 

なんて思ったりもするのだが、

いや、やっぱりやめとこう。

 

だって王…いやメルエムは、もうあの瞬間に完成した(幸せをつかんだ)キャラクターだと思うから。

あれ以上はないし、もうこれ以上は、描くことがないよね。

 

強さや容赦の無さに加えて、慈悲の心まで身に着けた完ぺきなキャラクターによる完ぺきな統治…そして時々コムギと軍議。

それは、マンガじゃなくて、自分の心の中にそっとしまっておくアナザーストーリーで十分。。。

 

 

コムギ、俺の名を呼んでくれ

 

考えてみると、

メルエムは自ら望んで王になったわけではない。

 

最初から、王になるべく生み出された存在で、いわばナチュラルボーン・キング…。

なんかだっせぇ(笑

 

 

「別に、強くなりたくてなったわけじゃないんだからね!」

もし、これがギャグマンガなら、そんなセリフが飛び出してもおかしくはないような存在で、しかし、そこはやはり王。

 

立場上、自虐的冗談の1つでも言って部下を笑わせることなどできないし、

ましてや弱さを見せることなど許されない。

 

加えて、最強の敵として物語の緊張感を保つという役回りも一手に引き受けているのだから(護衛軍がどこか抜けている面子だから)なおさらだ。

 

こういうのは…アリかも。

 

 

そんな中、普段は眉一つ動かさない王が、珍しく動揺を隠さないシーンがある。

 

それは、ネテロから、

「自分の名前を知りたくねえか?」

と尋ねられたとき。

そして、実際にその名を明かされたとき。

 

 

 

自分の名前を知りたい。

そして、その名を呼んでほしい。

 

生まれた瞬間から王として君臨することを運命づけられた彼にとって、

当然、自分は王だという自覚と誇りはあっただろう。

 

 

しかし、王というのはあくまで自分が立っている場所(立場)であって、自分という存在そのものではない。

 

『俺を、王としてではなく、生まれたままの、まだ王になる前のありのままの命(存在)として認めてほしい。』

 

メルエムに限らず、

そんなアナ雪マインドは、誰しも多かれ少なかれ胸のうちに秘めているものだと思う。

 

そして、

愛された記憶や自らを形成する精神的ルーツを持たない彼にとって、それに代わる唯一のものが、母から授かったメルエム(すべてを照らす光)という名前だったのではないだろうか。

 

『だから、その名で、俺を呼んでほしい。』

もちろん、そう願う相手は、自分が唯一弱さをさらけ出せる存在…コムギをおいて他にはいない。

 

それが、

もしそう願えばこの世のすべてを手に入れられたはずの王が抱いた、ただひとつの願いだったのかもしれない。

 

 

そう考えると、

 

 

 

レボログ
レボログ

人間ってなんて残酷なんだろ!

キメラの方がずっと仲間思いで、純粋でいいやつらじゃん!

なんでメルエムとコムギが死ななきゃなんねえんだよ~

 

 

という、

どちらかというと負の(負なのか?)感情が私の涙のふるさと(だからダセ~って(汗))ということは…実は理由の半分くらいで、

 

もう半分は、

「最期に、最愛の人に、運命の相手に自分という存在を認めてもらえて、名前で呼んでもらえて良かったね(泣」

という安堵のような感情がその正体だったのかな?と思ったりもする。

 

 

結果的に、

最後に2人は命を落としているからバッドエンド…とも取れるのだけれど、運命の相手と結ばれたと考えれば、これ以上ないハッピーエンドとみれなくもない。

ちなみに、私は今のところ、この結末はハッピーエンド。そう解釈している。

 

これは、つい先ほどまでは自分でも気がつかなかったことなので、

レボログ
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とりま、文字にしてみるだけの価値はあったのかなと(独り言)。

 

余談その1:君の名は~赤い糸はきっとあるはず~

 

メルエムとコムギ。

 

ちょっと、見方変えれば、アリ編は、2人が運命の相手と巡り合うまでの物語だともいえる。

 

 

2人だけで軍議に興じる束の間。

「この瞬間のために生まれてきた。」

 

お互いにそう確信する描写。

 

それは、もちろん、メルエムの救済だけではなく、

コムギが救われた瞬間でもあった。

 

 

 

2016年8月公開の映画『君の名は』では、

運命の赤い糸はきっとどこかに存在する

というテーマを描いて大ヒットを飛ばしたが、キメラアント編のコムギとメルエムの物語が多くの人の胸にこれほど突き刺さった要因の一つとして

 

「この瞬間のために生まれてきた」

というセリフに象徴されるように、

映画より一足先(単行本は2012年発売)に、そんな赤い糸の神話を裏書きしてくれていたからなのかもしれない。

 

「まだ、もう少しだけ運命の相手ってのを信じてみようかな。」

 

たとえ、絵空事だと分かっていても、

一瞬でもそう思わせてくれる2人の美しい物語はやはり何だかんだで尊い。

 

余談その2:感動した!で終わらせたくない

 

「よくやった!感動した!」

 

極端な話、

 

どんな感情の揺れ動きも、この一言で済ませられたら、

それで自分の中でスッキリと納得できるなら、これほど楽なことはないし、最初からこんなまどろっこしいことは書いていない(笑

 

ただ、

何かを書くにしろ、描くにしろ、作曲するにしろ、映像作品を作るにしろ、

自分が泣くほど感動した体験をうまく形に反映できなかったら、やっぱりそれはどうしたって片手落ちだし、どっかで物足りなく感じると思う。

 

レボログ
レボログ

感動体験を(別の形で)具現化したい!って欲求が創作の原点だと思うわけですよ。

 

だから、

どうして自分は、今泣いてんだろ?

っていう疑問に対しては、

めんどくさくても、いちいち、どこまでもそのルーツを探っていかなければ気が済まないというか、繰り返しになるけれど、創作の原動力ってそういうところでしょ?という思いがどこかにある。

 

もちろん、そこにはこれまでの体験や、出会いや別れや、いろんなものが理由として乗ってるだろうから、それをたかだか4000文字程度で全部解明することなんて到底できやしない。

 

…のは分かっているんだけど、人間は一日経つと記憶の75%は忘れてしまうというし、

じゃあ、この感動も、明日には何もなかったように消えてしまうのか…と思うと、たとえ的はずれだとしても、何らかの形にして残しておこうともがいて見ないわけにはいかないでしょうよ(笑?

 

つまり、これもメルエムが自らを名前で呼ばれることを願ったのと同じように、

誰かに存在を認めてほしい…あるいは自らの生きた足跡を少しでも残したいという何とも図々しい欲望のなせる業なのかもしれない(汗。

というわけで、毎度のことながら駄文長文失礼しました<(_ _)>

 

それでは、また。