世の中には、あまり気は進まないけれど、読むべき本というのは存在する。
例えば、私淑するあの人や、各界のビッグネームがこぞって薦めるような本。
ただ、評判も高く、内容的にはスバラシイコトが書いてあるというのは分かり切っているのに、何となく著者の考えが好きになれずに読まずじまいになる本というのもある。
どうせ自分の自由な時間を使って読むのだから、その時間を不愉快なものにしたくないという思いが、読まねば!という気持ちの邪魔をするのだ。
しかし、そうやって、感情的な好き嫌いで情報をシャットアウトすることが自分にとって損なことも多少は理解しているつもり…ではあるのだけど、なかなか悪い癖は治らない。
そんなときに、最初から、書評を書くつもりで読むと、食わず嫌いだった本なんかも、なぜかすんなりと読めたりする。
本と、それを読む読者としての私との間に、もう一人、本の内容を第三者に向かって、(多少なりとも)客観的に紹介しようとするワタシが挟まることによって、いい感じで本との距離を保つことができるのかもしれない、などと思ったり。
しかも、万が一私の書いたものに影響されて、本を買う気になってくれる人が現れようものなら…などと考えると、あまりいい加減なことは書けないから、より本のエッセンスを抽出しようと真剣勝負な気分も出てくるわけで、そうなると、もはや本が好きだとか嫌いだとか、そういう次元では読めなくなる(笑
すると、不思議なもので、自分とは考えが合わない作者の作品ほど、むしろ読みたいような気がしてくる。
なぜなら、
「そこは、そうじゃねえだろ!」的なツッコミを入れながら読んだ方が、本の内容がインプットされやすく、また、嫌いな相手というのは往々にして自分と正反対の考えや思想を持っていたりもするから、その違和感がひっかかりとなって強く印象に残ったりもするためだ。
その結果、賛否や好き嫌いはともかく、アクの強い書評というのが出来上がりやすい。
下世話な話、そういうクセの強い書評記事は、そうでないものより、読まれやすく収益性も高い。
となると、ブログを書くものとして、常にネタ探しに四苦八苦する身としては、
いいネタを提供してくれてありがとう!と感謝の念すら沸いてくるのである(笑
私が書評の読み手だったら…
もし、私が、誰かが書いた書評を目にする側だったら、
終始、作者の考えに同調したり、
おもしろい!
おススメ!
を連呼するステマ感丸出しのものより、
この本はくそつまんねーから、絶対読まないでね、これ僕との約束b
みたいな書き方をされた方が逆に興味が沸くいてくる。
つまりは天の邪鬼ということなんだろうけど(笑、
マズいと言われれば立ち寄りたくなる定食屋のように、売れる理由は必ずしもポジティブな面ばかりとは限らないのかもしれない。
「一度、教える側に立ってみると、自分の理解不足がよく理解できるよ。」
などと昔の人は、いいことを言ったものだ。
というわけで、書評を書くつもりで読んでみると、また一味違った本の読み方ができるかもよ?というお話でした。
それでは、また。