濃ゆい読書体験がしたかったらシングルタスク一択という結論に

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先日、マルチタスクは脳科学的にアカンよ、

ということを記事にさせていただいた。

 

 

ただ、筆者はこの脳科学的にという言葉があまり好きではない、

というのは、ここではどうでもいい話。

 

 

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読書も”1冊ずつ”が身になる気がする。

 

 

今回の記事のテーマも、一言で言ってしまえばコレ。

 

たとえば、他の用事で忙しくなかなか本を読む時間が取れないとき。

 

そんなとき、

 

「本は、忙しくても読むもんやで?」

というどこかのブログで読んだ記事の言葉がなぜか頭に浮かんでくる、そうして半ば強迫観念のように本を手に取ってみたりする。

 

 

さて、そこで一つ問題が生じる。

 

それは、マルチタスクの弊害そのままなのだが、

場当たり的に興味のある本読むのっていっけん効率が良いようで、実際、あんまり身になってないよね?問題だ(笑

 

もし、5分しか本を読む時間がないとしたら、本を選んでいる時間も勿体ないし…ということで、その時々で直感的に

 

「読みたい!」

 

と思う本をチョイスする、というパターンで今まで何冊か本を読んできたのだけれど、ある時、ふとひとつの事実に気が付き愕然とすることになる。

 

と書くと、ちょっと大げさだけど、やっぱり、あれはあれで青天の霹靂だった(こっちの方が余程大袈裟だろが…)。

 

 

アレ?本の中身が思い出せない…?

 

 

そう。

そうなのである。

 

ついこないだまで読んでいた本の内容が、驚くほど記憶に残っていなかったのだ。

まあ、私が忘れっぽいことを差し引いても、やはりこれはちょっと驚くべきことだった。

 

そもそも、5分~10分という短い時間なら、そのとき最も興味が持てるものを集中して読む方が身になるし、濃い読書体験ができる、と踏んでの数冊同時並行的読書だったわけである。

 

 

にもかかわらず、蓋を開けてみれば、期待とは裏腹に、その滋養はまったくといっていいほど、私の細胞にまで届いていなかったのだ。

 

坂道を駆けあがるように読む

 

では、なぜそこそこ集中して読んだにも関わらず、本の内容が身になっていなかったのか。

 

その前に、そもそも本が身になるとはいったいどういうことなのかという問いから向き合うべきかもしれない。

 

例えば、ノウハウ本やテクニカルな本であれば、知識やスキルを覚えられれば、その本の役割は終了ということになる。

だから、別に、いろいろな本を同時並行的に読んでもそれほど吸収効率は下がらないのかもしれない。

 

ただ、それが小説や物語の類となると、

本を読む目的は、小説的な技法や、比喩表現、あるいは修辞法といった知識の習得にとどまらないから、多少というか全く読み方を変えなければならないのでは?という気がしてきた。

 

 

作品の持つ熱を感じる

 

小説には、熱量がある。

それは、作者がそれぞれのパートにどれだけ思い入れがあるのか、力をこめて書いたのか、あるいは自分の過去を披歴しているのかなど様々な要素がない交ぜになって生み出されるものだと思う。

 

そして、その熱は、一つの作品に深く深くコミットしなければ感じることは難しい。

 

その一方で、良い読書体験というのは、必ずと言っていいほど、読んでいた時に感じたワクワク感や切なさ

あるいは、難解でよくわからないけど歯を食いしばって読みきった!というような、いわば熱量とセットで”体験”として記憶されている。

 

その点でいうと、

細切れに、しかも間をあけて読んだのでは、本を読んだという既成事実と話の筋は手に入っても、作品と共に一つの世界を駆け抜けたというような濃密な読書体験は望むべくもない。

 

 

思うに、しばらくある本から離れてしまうと、

その間に、まるで坂道を転がり落ちるかのように、作品と自分との距離が開いてしまうのだ。

 

この辺ちょっと、イメージを言葉化しにくい。

もちろん、記憶力の良い方なら、話の筋は理解できているだろうし、すぐに作品世界に没頭できるのかもしれないけれど、

 

何というか、作者の息遣いとでもいおうか、本を読みながら一緒に並走している感が限りなくゼロになってしまうのだ。

 

そうなると、もはやその読書体験は、マラソン中継をテレビで見ているか、24時間マラソンで実際に自分もランナーと伴走しているか、くらい違ったものになる。

 

これが、他の人の場合もそうなのか、自分だけに課せられた悲しい定め(構造)なのかはわからないが、少なくとも、私の場合は、そのように運命づけられているらしい。

 

連敗しているときでも応援するのが本当のファンやで?

 

ある生粋の阪神タイガースファンがこんなことを言っていた。

 

「負けてるときも、調子の悪い時も、休まずに球場に足を運ぶんだ。そうすることで、チームが勝った時、その喜びは何倍にもなるから。」

 

これを小説に置き換えるなら、

「つまらないときも、よくわからない箇所でも、投げ出さずに読み続けるんだ。そうすることで、その世界の理や作者の想いが理解できたとき、何倍もその小説のことが好きになれるから。」

 

ということにでもなるだろうか。

 

要するに、

 

一冊ずつ共に旅するような気持ちで読む

 

濃ゆい読書体験をしたかったら、そういうことが大事になってくるのかもしれない。

あくまで経験を元にした個人的な意見ではあるけれど。

 

 

さてさて、

そんな読み方を、私の身の回りにある本に適用して読書を再開するとなると、

果たして、どれだけの本を読み返さなければならないのだろうか…とちょっと途方に暮れる気持ちにもなるのだが、

 

既に、この世界には、現時点で私が読もうと思っても読み切れないだけの本が用意されているのだし、これからもその数は増殖していくことだろうから。

 

だから、完璧であることはおろか、キリの良いところまで本の世界を旅してみよう、なんて発想自体が愚かで、読書体験は、構造上(よほどの天才なら話は違うのかもしれないが)如何にも中途半端なところで終わりを迎えるのは目に見えている。

 

その点は、自信を持って言えるというか、安心していいというか。

 

とりあえず、先ほどの熱烈な阪神ファンの言葉に肖って、それぞれの本にもうちょい寄り添ってみようかしらん(笑

 

それでは、また。