うまい絵をみると、感動する。
それは、条件反射みたいなものだから、理屈なんて考えるまでもない。
ただ、それはあくまで、その絵が人の手によって描かれているからだ。
その感動の正体を私なりに考えてみると、それは同じ人間という生き物がここまでのものを作り上げられるのだということへの驚きと喜びなのだと思う。
それは、例えるなら、オリンピックで覇を競うトップアスリートたちの限界を極めたパフォーマンスに驚嘆するのにも似ている。
そこでひっかかるのが、いわゆるデジ絵と呼ばれる表現手法だ。
これは、デジタル…つまりパソコンやペンタブなどのツールを使って描かれた絵のことを指す、と私は理解しているが、違ったら失礼。
もちろん、デジ絵の中にもスバラシイものはたくさん存在する。
それらをみれば、私だって、素直にうまいと思う。きれいだと思う。
でも、何か釈然としない。
たとえば、街の風景ひとつとっても、デジ絵であれば、写真を取り込んで、そこに小一時間、手書きで書きこむことで、写真と見まがうばかりの(そりゃそうだ、元は写真なのだから)背景が完成する…。
こういうワザが可能であるため、私の中で、デジ絵というのは、ちょうど絵と写真の中間に位置するようなイメージがある。
もし、仮にこれがアナログ100%の手書きならば、こうはいかない。
ビルの一つ一つ、建物のひとつひとつ手作業で根気強く描いていかなければならない。
要は、かかる手間暇が全く違うのだ。
また、デジ絵の場合、写真を加工しただけでは完璧すぎてつまらないから、あえてラフな手書きの書き込みを施して、作品に丸みを与えようという不思議な工程が加わる場合がある。
手書きでは、いかに写実的に描くかということがひとつの大目標とされる中にあって、この、上から降りてきてやるか的な(?)態度がどうも気に入らない(笑
圧倒的な作品やパフォーマンスを前に驚嘆し、畏怖もし、あるいは感動することの背景には、その裏で費やされた膨大な修練や、トレーニングで流した血と汗や涙というものの存在が欠かせない。
そうやって、常人にはおよそ超えることのできない山をいくつも超えた先に、超人的な境地に達したのだと想像する。そのことが、やがて湧き上がる強烈な感情の源泉となる。
しかし、それが実はそうではなく、高性能なデバイスや美しいテクノロジーの力を借りてお手軽に作り出されたものだとしたら、どうか。
操作さえ覚えてしまえば、もしかしたら、私にすら作れるものだとしたら?
感動をかえしやがれ!
おそらく、そんなふうに内心ガッカリする可能性大だ。
ちょっと、大げさに書いてしまったが、
私がデジ絵に感じる違和感とはつまるところ、デバイスの進化によって、今まで私の中にあった、絵のクオリティーとそれを仕上げるために費やされる労力という両者の間尺が大幅に短縮されてしまったことに原因があるのだと思う。
いくら、細密な絵であっても、コピペに少々手を加えただけでできてしまうのなら、そんなものに、それほどの価値は感じられない。
先ほどのアスリートの例を用いれば、全くトレーニングもしていない腹の出た(別に出てなくてもいいけど)一般人が、1機械の足をつけて100メートルを8秒台で走ったとして、
はい?それで?
という感じなのと似ている。すごいのは、その人ではなく、むしろそれを作った技術者の方だろう。
なぜ、あの人は神の手と呼ばれたのか
かつて、漫画の神様手塚治虫は、フリーハンドで完璧なマルを描けることを誇りにしていたというけれど、根源的に、私が絵を描く人間に抱く尊敬の念というのは、そういう事なのだと思う。
人間の身で、いかに神に近づくか。
完璧な直線を描けるのか。迷いのない、ブレのない美しい曲線を描けるのか。
それが、デジタルであれば、誰でも簡単にできてしまうのだから、やはり間尺に合わない。
少なくとも、デジタルとアナログとを一緒くたにすべきではないだろう、と個人的には思っているが、
(注意)この絵はデジタルです。
などとイチイチ注意書きを入れるのもそれはそれで無粋か(笑
まあ、私が勝手に、デジ絵とアナログ絵とをきっちり選別する目を養えばいいだけのことなんだろうけど…。
無論、アナログで超絶な絵を描ける方が、表現の可能性や拡張性を求めて、デジタル機器を使うというのは、まったく何の異論もないってことだけは、あらかじめお断りしておく。
オリンピックだって、アスリート部門とは別に、最新デバイスに身を包んだ超人ピックなんかが開催されて、100メートル5秒とかで走るんなら、それはそれで見てみたい気もするし。
と、実はデジ絵に興味を持ち始めた輩がなにか申しております(おい笑
と、いったところで、今回はこの辺で。
それでは、また。