【映画】『青い春』はアオハルCMで食傷気味のあなたにこそ相応しい作品だと思う

映画レビュー
スポンサーリンク

ああ、青春ってやっぱ”こっち”だよな。

 

先ごろ、日清のアホハ…じゃなくて…アオハルかよCMとやらを観て辟易していた折、

同じく、アオハルをテーマにしつつも、ベクトルはおそらく真逆(恋や愛なんて語りゃしない)な映画として期待してみたのが、今回レビューする『青い春』。

まずは、観てよかった。アホハル(あ、言っちゃった)CMで傷づいた私の中の何かが修復されていく感じ。大袈裟に言うと魂が浄化されるような清々しさが心地よかった。

 

松田龍平演じる九条は、ややサイコ的というか、人よりも恐怖に対する感覚が欠落している以外は、どう見ても普通の高校生なんだけど、高校に伝わる度胸試しでダントツのトップだったというだけで、殴り合いもせず、映画の冒頭で早々に、番長に就任してしまう。

となると、テーマとしては、いわゆる不良高校生の青春群像劇なのだろうが、クローズのように、

喧嘩でてっぺん取ってやるぜ!的な分かりやすいストーリーがあるわけではない。

 

特に、不良同士のいがみ合いが描かれるわけでもなく、暴力は、日常の1シーンとして扱われはするものの、この作品のテーマはそこにはない。

 

ワタシなりに思うこの作品のテーマを一言で言うなら、

やはり”青春そのもの”ということになるのだろう。

 

青春、青春。

私にとって、それは、人生のある時期に否応なく呑み込まれ、渦中いるうちは、わけもわからずに、精いっぱいもがいてはいるけれど、今、自分がどこにいるかもわからず、気が付いけばいつの間にか放り出されてしまう渦(うず)のようなものだった。

そして、その渦は、一度放り出されたら最後、もう2度と戻れはしない。

 

それゆえ、十分にそれを満喫した、だとか

一片の悔いなしだとか、そんなことすら思うことも無く、ただ過ぎ去ってしまった日々。

 

この映画では、まさにそんな青春の渦の中で、わけもわからずもがく若者たちの、

ジリジリとした憤懣(ふんまん)やどこに向けていいのかもわからない怒り、衝動、夢、不安、理想、現実、挫折…そして友情、そんなものがない交ぜになって、その作品世界を群青色に染め上げている。また、作中には、ある若者が、青春と決別する印象的なシーンも描かれいるのだが、それがなんとも切なくも美しい。

 

個人的に、青春という言葉から漂ってくる空気感を描かせたら右に出るものはいないと思う松本大洋。青春の輝かしい面ではなく、”苦い”部分をこれだけ美しく描ける表現力は、ちょっとヤバいくらい普通じゃない。まさに唯一無二。

 

もともとは、若き日の松田龍平の演技が気になって、見始めた作品だったが、まさか松本氏の初期作品が原作の映画だったとは、思わぬ拾い物をした。

 

また、九条の幼馴染・青木を演じる新井浩文も、中世的な松田とは対照的な、硬派な不良少年役として作品に色を添えている。

 

また、意外なところでは、今や芥川賞作家の又吉直樹や、小泉今日子、病弱な少年役として登場する瑛太など、なかなか豪華な顔ぶれか脇を固めており、そういった発見が随所で見られるのも視聴者を飽きさせない工夫が感じられ好印象だった。

 

80分の青春タイムトリップ

しかし、よくもまあ、1時間20分という映画としては短い持ち時間の中で、ここまで青春の放つ青臭い空気感を表現できたものだと感心する。

いや、むしろ、その純度を保ったままヤマもオチもとくにない群像劇からなる作品世界の中を、疾走感を持って一気に駆け抜けさせるためには、この1時間20分という時間がベストだったのではないかとすら感じさせる。

 

私の記憶が確かならば、

かつて、松本大洋は自身の短編集のあとがきに「青春とは、まだ日が上る前の、夜明け前の空の青さなのだと思う。」と書いていた。

 

夜が明けてしまったら、日が昇ってしまったら、人は皆照らされてしまう。

だからこそ、せめてまだ夜明け前の、今だけは…。このときだけは…。

 

80分の中に、そんな青さがつまった映画。

やっぱり、青春群像劇はこうでないと。