朱子学と陽明学から見る日本

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先日、高城剛氏の『多動日記』という本を読んでいて、その中に気になるフレーズを見つけた。

 

「歴史を冷静に振り返れば、日本は朱子学と陽明学が交互に起こって、社会を大きく変えていることに気がつく」。

ここでいう朱子学や陽明学って言葉、著者である高城氏の中では、おそらく割とシンプルな意味で使われているような気がするのだけど、それらが交互に起こって日本を変えていったという解釈が、イマイチ理解できない。

その原因は、これも単純で、私の中に朱子学と陽明学をイメージできる素地がないためだと思われる。

そこで、今回は、このセンテンスの意味を自分なりに理解すべく、ここでいう朱子学と陽明学の意味するところについてちょっとだけ迫ってみたいと思う。

とりあえず、それぞれの思想がどんなことを言ってるか大まかにでもおさえておかないと始まらない…ということで、まずはそれぞれの特徴から見ていくことに。

 

朱子学

宋の時代に朱子が確立し、その後儒教の主流となる。
朱子学は孔子・孟子の教えをいわば、全宇宙の絶対の真理として捉え直した。孔子孟子の説く「正しき人間関係のあり方」を全宇宙、森羅万象、ありとあらゆる存在にとって正しいあり方、と捉え直し、それを「理」と呼んだ。

つまり、宇宙のありとあらゆることには、正しい姿、あるべき姿、関係性があって、それを司っているルールが「理」ってことか。

余談だけど、この「理」を擬人化すると神ってことになるのかもしれない。あ、これは単純に個人の感想です(笑

人間の行動はあらかじめ全て決めれている?

この「理」という考え方、なかなか強烈で、人間の行動はすべて初めからこの理によってプログラミングされているというような説明をしているらしい。

つまり、電車で席を譲るのも、親孝行するのも、自然にそうしようという良心からではなく、理によってそうするように仕向けれているというのだ。ってことは人間には最初から行動の自由はないってこと?

分かんねえよ…、沢庵和尚。

 

要するに、朱子学の教えってのは、朱子先生が考えた、正しい人間の在り方のテンプレにすべての人間をギュッと押し込めて、それが窮屈で収まりきらない人間は「理」に従わないフトドキものだから、そんな自分を否定し、恨み、そして(朱子学でいうところの)正しい自分に生まれ変われ、コラ( ゚Д゚)ということだと、勝手に理解しておく。

「ならぬものはならぬ」とか、そういう分かる人にはわかるけど、「なんで??」って人には永遠に納得できないような、日本に昔からあった不文律(美徳?)みたいなものも、根っこにあるのはこの「理」の考え方なのかも。

この思想を現代までつなげていくと、日本的な同調圧力や、空気読めや的な気持ちの悪い雰囲気につながってくるのだろうか。

あ、でも、別に朱子先生も、個人が個人の欲望をかなえることを否定してないんですよね、ただ、そのお眼鏡にかなった正しい欲望でなければ捨て去るべきってことをおっしゃってるだけで。でも、それってスタンスとしては結局欲望の否定にちかいんじゃないでしょうか・・・、あ、すいません、生言って(笑

 

陽明学

陽明学は、明王朝時代に、王陽明により確立され、日本では中江藤樹、熊沢蕃山、佐藤一斎などが研究した。

あるとき、王陽明は、竹を1週間以上観察し続け竹の理を知ろうとしたが、失敗し自己嫌悪に陥った。

しかし、よくよく考えた結果、そもそも、「竹の理なんてねんじゃね?」という疑問が生じた。

そして、そんな朱子学への疑問から、貧しさにも負けず思索を続け、やがてある悟りに至った。
朱子学では、理を宇宙すべてをおおう法則のように考えるけど、本当はそんな絶対的な「理」なんてものはない。いうなれば、人間の心こそが理なのだと。

自らが思うこと、感じること、考えることが「理」なのだから、人は何より自分の思うがままに行動すればいい。それこそが「理」に適った正しい行動になる。


こう書くと、人々がそれぞれ身勝手な行動をとり、それで混沌とした世の中になってしまうようだが、そうではない。

なぜなら、自分の心に従うためには、注意深くその声を聴くことが大切であり、そうすることで本当に心が純粋に欲していることを知ることができるからだ。

それは他人の意見に流されたり、権力や地位や名誉、あるいは富などによって曇らされた偽の欲望とは全く異なるものであり、人々がみな自らの心が純粋に望むことを自覚できたなら、そのときは、それぞれが自らの欲するところを自然に満たしながら、なおかつ秩序ある社会がおのずから形づくられていくでしょという考え方なんだろうというのが私なりの解釈。

 

朱子学と陽明学の違い

陽明学からおよそ300年前に誕生した朱子学や、その源流でもある儒教というのは、国家や体制側が政治的に民衆を統率しつつ、いわば、その限られた自由の中で幸福や平穏を目指しましょうという、どちらかというと体制側(支配側)の思惑から生まれた思想だという印象をうける。

それゆえ、そこで語られる幸せの形態も、外側からある程度決められたテンプレであって、それに何の疑いもなく幸福を感じられる人はいいけれど、そうでないものは、無理やりにでも矯正させるか、村八分にするかといった全体主義的な匂いがする。

それに対して、陽明学は、個人の自由は、国家や体制によって縛られるようなもんじゃないと説く。
「何に幸せを感じるのかは、一人一人が自分の心に従って決めてね」という自由度の高い思想だが、その一方で、自我がしっかりと確立していないと、いつの間にか誰かの欲望を自分のものだと錯覚してしまう危険性もありそう。
あたりまえだけど、どっちも良し悪しですね。



まとめ

ここまで、朱子学と陽明学について、冒頭の一文の意味を理解することだけを目標に、最低限の内容を私なりに整理してみた。

その上で、高城氏の言わんとしていることを解釈してみると…

日本は歴史的にみて、朱子学と陽明学が交互に起こって…というのは、要するに、例えば、江戸時代にみられたような封建体制的な絶対的支配があり、またそれに反旗を翻す形で起こった明治維新…からの文明開化…しかし、その後、明治憲法下、軍部の肥大化や治安維持法の出動による昭和初期の国民皆兵制のような時代から、戦中→終戦そして、束の間、自由と混乱の復興期を経て、親方日の丸の高度経済成長期を迎え、安定的な終身雇用の元、モーレツ社員がもてはやされ、しかし、やがてはバブルが崩壊し、その後、失われた20年という経済の大低迷期の最中、ホ〇エモンに代表されるようなITベンチャーから成功を収める若手起業家らの台頭がそれまでの大企業安定志向の風潮へ一石を投じ、しかし、やがてそれも既存の体制側によって潰され…

とまあ、そんな具合に、絶えず体制による安定的な支配と、それが、やがて時代に変遷とともに老朽化そして崩壊、そして、その混沌と自由の中からあらたな時代を切り開くイノベーターが現れ、彼らが民衆を扇動し、それがまた新たな体制の礎になり…ということを繰り返しながら現在に至るという事…でいいんだろうか。

あ、

空気読めやコラ(アンチKY)=朱子学的⇔イノベーター=革新的=空気を読まないこと=陽明学的

なんかつながった。

【Vlog】イノベーションは空気を読まないこと

まあ、朱子学ってどちらかというと人々をあまり信用してないよね、というか、
「どうせ、ダメなんだから、俺のいうこと(この場合は理なんだろうけど)に従っとけ」みたいな性悪説的な考え方な気がするので、正直、あまり好きになれない(笑

それに比べると、心即理のような、「あなたの心にあるものが理なんだよっ」て考え方は、個々人の良心を信頼してるって意味では性善説的で好感がもてるかな。でも、まあ、若干無責任かつ使いこなすのは難易度高めではあるよね、絶対。

随分と長くなってしまったけれど、そしてちゃんと理解できたか甚だ怪しくもあるけれど、とりあえず、一冊の本の一文をきっかけに朱子学と陽明学の基礎の基礎に触れることができただけでも、個人的にはよかったかなと思うております。

というわけで、今回もお付き合いいただきまして、感謝。

それでは、また。



PS.
最後に、ふと、気になったことをひとつ。
インターネットという、システムとしては人間の自由度を拡張できそうなツールによって、逆にSNSを使ったいじめが起きたり、他者に対する無責任な批判や不寛容な意見が大量に垂れ流されることによって、結果的に表現の自由が自主規制的に抑制されていく現象は…陽明学的?それとも朱子学的?

どうぞ、暇なときにでも考えてみてください。ではでは。