ゲームと読書は両立しない、と思う。

ゲームと読書は両立するか。

これは、長年私の頭の片隅に転がっていたテーマのひとつだが、
先日、ついに結論が出た。

「…ムリ(笑」

もちろん″今の私にとって″はということではあるけど、
おそらく今後も、″あちらを立てればこちらが立たず″な関係性はしばらく続いていくと思う。

『読書』と『ゲーム』。

どちらも余暇、つまり自分の自由な時間を使って行うものだ。
読書の方がゲームよりも価値があるとか、
いやいや、ゲームの方が反射神経を鍛えられるからボケ防止になるっしょとか、
正直、そんなことはどうでもいい。

それはある意味では宗教論争みたいなもので、決定的な科学的根拠でも提示されない限り、いや、仮に示されたとしても、それに対し納得しない側がごちゃごちゃとなん癖をつけながら、これからも細々と平行線を辿っていくテーマな気がする。

だから、両者にどれほどの価値があるかは、各々で決めていただけたらと思う。

今回は、その優劣を論じたいわけではなく、
ただ、個人的に「両立しないよな」と思う理由を並べてみようというだけのことだ。
ちなみに、ここでいうゲームとは、テレビゲーム、ネトゲあるいはソシャゲといったデジタルなものを指し、囲碁や将棋、ボードゲームのようなアナログなものは含まないものとする。
それでは、興味のある方だけ、ここから先に進んでいただくこととして、
さっそく初めてみよう。


ゲームと読書は両立するか

今回のメインテーマはタイトル通りな、コレ。
まあ、脳科学的に…とかはとりあえず置いといて、
私にとっては、「まあ、ムリ」という結論は、今のところ簡単には覆らない気がする。

ちなみに、ここでいう″読書″というのは、本の世界にどっぷりとつかって時間も忘れてしまうような、なかなか得難い体験のことで、
又吉先生言うところの「本の中に頭半分めり込んだ」ように感じるほどの状態をイメージしていただきたい。まさに″没頭(ぼっとう)″した状態。

要は、そのような濃密な読書とゲームとは両立しないと考えているという意味であって、
それ程集中を要せず、気もそぞろで文字情報だけ追うような作業なら、別に敢えてここで両立がどうのと論じる必要もないだろう。

以下、そう思うようになった経緯について、例えなども交えつつ、また少々書き連ねてみたい。

ゲームは例えるならとにかく味の濃ゆい料理

ゲームの存在意義、もっと露骨な言い方をすると、ゲームメーカーの狙いというのは、
とにかく、そのゲームの世界にプレイヤーを引き込み、長くとどまらせること、つまりハマらせることにある。

まあ、プレイヤーを楽しませるのは、あくまで、その手段であって目的ではないってことですね。

それゆえ、派手なエフェクトや高密度なCGで構築された現実と見まがうばかりの、あるいは現実よりも魅力的な仮想空間を用意し、その中で、理想化されたキャラクターを躍らせ、

また、オンラインでの対戦色の強いものでは、ランキングや勝率などを提示して、プレイヤー同士を意図的に競わせたり、あるいはレアアイテムを設けて射幸心を煽ったりとあの手この手でプレイヤーの意欲を掻き立てる。

とにかく、あの手この手でプレイヤーを虚構の世界の中に引きづりこもうとするのである。
そのインスタントに得られる刺激と強力な引力とのコンボは大人でもほぼ防御も回避も不能で、抗うのはかなりむずかしい。

というか私なんかは、意識的に距離を置く以外に圏内にいて引きずりこまれない方法はないと思っている。また、ネットゲームに詳しい精神医学の専門家の話によると、それは、酒やタバコ、あるいは、覚せい剤に匹敵するほど強力な中毒性を持っているとか。

それらの中毒症状を脱するには、ゼロか100かしかなく、ちょっとだけよ…は禁句だというが、ゲーム(とりわけネトゲ)の世界にも全く同じことが言えるのではないか。


本は、味わえるまでに時間のかかる娯楽

一方で、読書はというと、例えるなら、ダシの味が効いた繊細な味付けの料理みたいな感じ。
それゆえ、その味をしっかり味わうには、それなりに肥えた舌というか、ある程度の訓練や慣れ、素養みたいなものがいると思う。

それは一朝一夕ではなかなか身につくものではなく、また、しばらく本を読むことから離れていると容易に失われてしまうという厄介な代物。ちょうど、筋トレと筋肉の関係みたいな。

ここまでで、勘のいい方なら、
なぜ私が読書とゲームがほぼ両立できないと考えるのか、ある程分かっていただけたんじゃないだろうか。

もし、和食の料理人がビニ弁ばかり食べ続けたら…

今回は、料理のたとえ話を使って話を進めてきたので、その例で言うと、
たとえば、毎日、コンビニ弁当のような滅茶苦茶濃ゆい味付けのものばかり食べていたら、徐々に繊細な味わいを感じる機能がマヒしてくるはずだ。
その状態で、ダシの味や素材の味を感じろといわれても

「ん?これ味なくね?醤油かソースか塩足した方がいいんじゃね?」

みたいなことにもなりかねないだろう。

同じように、普段から、ゲームのもたらす強い刺激に慣れている人は、おそらく読書という地味な行為のもつ埃(ほこり)っぽさや、ダイナミズムの欠如、表面上の退屈さに耐えられないのではないだろうか。

いくら、一流の料理人が仕上げた料理だといわれても、味を感じられないものを美味しいとは思えないように。

また、読書の場合、ゲームでは当たり前に提示される情報(作品の持つ世界観やキャラクターの容姿や声のトーン、表情、情景描写、文化的な背景など)を文字情報だけを頼りに再構築しなければならない。文字通り自分だけの世界を作り上げていくわけだが、それが、慣れるまでは結構シンドイ。

だからこそ、読み手によっていろいろと想像を膨らませられたリ、受け取り方が違ったりとさまざまな読み方ができる点が本の魅力ではあるんだろうけど。


″ゲームは1日1時間まで″という絵空事

かつて、高橋名人が残した名言だが、
完全オフラインかつドット絵時代のレトロゲーならともかく、昨今の精密なグラフィックと視覚効果に彩られたハイスペックなゲームをプレイするのなら、常に自分は依存症に陥る危険性と隣り合わせなのだと自覚しておくべきだろう。

ましてや、今後VRなんかも一般化してきた日にゃあ・・・
また、オンライン要素など、他者とのコミュニケーションの要素も絡むと、自分の都合で「はい、やめま~す」とはなかなか言えないという事情も無視できなくなる。

というと、
「徐々に現実とゲームの境界が曖昧なってきてるんだから、現実みたいに楽しんだらええやん?そういう意味では、長時間プレイって、ステキやん?」
という意見も出そうだが、私的には、それには、ちょっと疑問。

なぜなら、どれだけゲームが現実に近いリアルな表現を用いていたとしても、そこに開発者とプレイヤー(ユーザー)という構図がある限り、またそれが明確な意図をもって作られたものである限り、ゲームは決して現実にはなりえないからだ。

まとめると、

ゲームをプレイするのに中庸はありえない。
人間はそこまで理性的には出来ちゃいないから、選択肢は結局ゼロか100かの2択しかない。

というわけで、私の場合、本を読みたい気分の時は、ゲームとは意識的に距離を置くことにしている。

ゲームを1時間やったら、次は本をがっつり1時間読んで…とか
そういう器用なことができればいいんだろうけど、私にはドダイ無理な芸当なので(笑

ゲームは日常生活を侵食する娯楽

なんというか、ゲームってプレイしている時間だけでなく、それ以外の時間にも食い込んできて、日常生活まで浸食してくるような魔力を持っている気がする。

これがスポーツならば、体力の限界だったり、コートを借りられる時間だったり、暗くなったら出来なかったり、そういった内外的な要因も手伝って、生活のバランスを崩す原因になりにくい面があるけれど、スマホを使ったゲームなんかは、その気になれば24時間どこでもできてしまうし、スポーツ程体力を消耗するわけでもないから、1時間のつもりが気づいたら3時間プレイしていたなんてこともフツーに起きてくる。

また、プレイしていない時間も、
(あそこでは、あの選択肢が正しかったんじゃ…?)
(あ、今度は、あの方向からアプローチしてみようか…)

なんて、無意識にゲームの戦略を練ったりしていて、ヒトの話が耳に入ってこないとか、仕事が手につかないとか、そういうヤバい状態にも、ついつい陥りガチ。

もちろん、そんな症状が出始めたら、もう本に頭からめり込むような読書体験なんて、とてもとても望めるようなもんじゃない。

これが、オフラインのゲームならまだしも、オンラインとなると常にゲームの世界に入り浸っているような廃人というメンドーな存在をなかなか無視できないことから、何だか気が休まる気がしない…というか不毛?(笑

「まあ、特定のゲームがうまくなることって、
いうなれば、逆上がりがスゲー得意になった程度のことでしかないし、それって、鉄棒に興味のない人にとってはどうでもいいことなんだよね。

そう思うと、日常生活に支障が出そうなヤバい雰囲気を感じ始めたら、さっさと撤退しちまうのもスマートな戦略でしょうよ、実際、お前のプレイしてるゲームのこととか、俺、全然興味ねえし。」

先日、そんな上手い例え話を交えつつ、辛辣な意見をくれた知人に感謝しつつ、
そのおかげもあって、久々にコンスタントに本を読み始めている今日この頃。

それでは、また。