ゲームは「遊び」、映画は「お話」。

ゲーム


よく、ストーリーラインが秀逸なゲームを評して、
“このゲームはプレイする映画だ”と表現されることがある。

手に汗握る展開や予想を覆す結末、あるいは見事な伏線の回収など確かに名作と呼ばれるゲームと名作と呼ばれる映画には共通点する点も多い。

ただ、両者の間でいくつか決定的な違いがある。

 

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まず、時間的コスト。

通常ゲームは、少なく見積もっても、名作と呼ばれるような密度の濃いものであれば、クリアするまでに少なく見積もっても10時間以上の時間を必要とする。

さらに、メインとなるストーリーラインの他に、寄り道やサブクエストなどの要素も含めると、クリアするまでに100時間以上の時間を費やす作品も珍しくはない。

一方、映画は、見終わるまでに要する時間は長くても2時間~3時間程度だ。
このように、映画に比べてゲームは圧倒的に多くの時間を費やす。
それゆえ、もし、仮に同じだけの感動が得られるのであれば、ゲームではなく、同じ時間でより多くの映画を観る方が満足度が高いということになるかもしれない。

だが、私は、映画とゲームにおける更なる決定的な差異によって、
作品から得られる感動のレベルもまったく違ったものになると考えている。
それは、作品に対するコミットメント(かかわりあい)の違いだ。

たとえば、映画であれば、劇場で見るにせよ、家で見るにせよ、始まってしまえば、たとえ視聴者が眠ってしまってもストーリーが止まることは無い。
それは、あたかも一度乗ってしまえば、後は自動的に目的地まで運んでくれる電車にも似ている。

確かに、車窓からみえる景色は時に旅情や感傷を誘うかもしれないが、それは一過性のもので多くの場合ながく心に残ることは無い。
それは、移動する(映画をみる)ということに対するコミットメントの度合いが低いためだ。

一方で、ゲームは基本的にプレイヤーが自らの手でストーリーを進めていかなければならない。

自ら謎を解き、難敵を倒し、一歩一歩ストーリーを先に進めていくのだ。
それは例えるなら、自ら足でこがなければ前に進まない自転車のようなものだ。

当然、上りのきつい坂道は汗だくになるし、その分、下り坂を一気に下る爽快感は、ほかでは味わえないものだろう。
このような濃密なコミットメントによって、ゲームはただの娯楽から、幸福な体験へと昇華する。

たとえ架空の物語の中であっても、プレイヤーはある時間をそこで過ごし、それを自らの体験として深く記憶するのだ。
確かに、ゲームは膨大な時間を費やすエンターテイメントである。

しかし、名作と呼ばれる作品のもつ優れた世界を自らの足で一歩一歩踏破する喜びは、何物にも代えがたいものだ。

ゲームは「遊び」で映画は「お話」。
映画であれば何気ない探索シーンも、ゲームではそれ自体が楽しい探検ごっこなのである。

それでは、また次回。