共感性羞恥というネーミングに共感できない件

メンタル

子供の頃、特撮モノなんかで悪役が登場して、ヒーローがやられそうになるシーンが始まる予兆を感じると、手で目や耳をふさいで「あ~~」とか言いながら走り回っていた記憶がある。
別に自分が、悪役にボコボコにやられるわけではない。ましてや最後はヒーローが大逆転勝利するのは分かりきっているにも関わらず、ヒーローがピンチになるシーンだけは見ていられなかった。

また、最近では、フィギュアスケートの選手が難易度の高いジャンプに挑むシーンでどうしても目をそらしたくなってしまう(応援していればしてるほど)。

先日、とあるバラエティ番組でこの”見ていられない”現象のことに触れていた。
それによると、どうやらこの現象は、心理学的には共感性羞恥と呼ぶらしい。

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番組内での説明によると、

「ドラマの恥ずかしいシーン」や「他人のミスを目の当たりにした時」自分が恥ずかしい思いをした時と脳の同じ部分が働き「あたかも自分の失敗のように感じる」のだそうだ。
また、番組内で視聴者500人に行なったアンケートによると、およそ10パーセントの人がこの共感性羞恥を経験したことがあると回答した。

 

10パーセント…これは多いのか、それとも少ないのか。

その後、ツイッター上など番組を見た一部視聴者の間で「昔から経験していたあの現象に名前があったことを知れて何だかスッキリした」という趣旨の意見が飛び交っていた。

だが、個人的には、共感性羞恥というネーミングには正直あまりピンときていない。
子供の頃から感じていた、あのいたたまれなさ、見ていられないという感情は、決して羞恥心だけではなかった。

そこには、哀れみだったり、恐怖心だったり、同情心だったり羞恥心だけではないもっと複雑な感情の揺らぎがあった。だから、たとえば、共感性自己投影とか、もう少し意味に幅のあるネーミングだったらよかったのにとちょっと残念な気はしないでもない。

今思い出しても何となくセンチメンタルな気分になるあの淡い思い出を、
「はい、あなたのアレ共感性羞恥ね!」と上から目線で片づけられたような気がしてちょっとイラッとしないでもないし(笑


まあ、当たり前なんだけど、共感性羞恥と呼ばれる現象にもさまざまなバリエーションやグラデーションがあるということなのだろう。

そして、これは私なりのあてずっぽう仮説だが、多分、この現象には、小さなころに経験したトラウマなんかも関係しているように思う。ということは、この感覚が理解できないという方は、さしたるトラウマもなくスクスクと成長できた幸福な子供時代を送ってきたということなのかもしれない。

とはいえ、私自身を振り返ってみても、特に不幸な子供時代を過ごしたわけではないのだけれど(まだ記憶のない幼児期に何か怖い思いでもした??)。
あるいは、多少スピリチュアルな話になるが、前世の記憶なんかも関係しているかもしれない。

さて、私の仮説はともかく、生まれつき特定の割合で脳のある部分が過敏に反応するということはあるのだろう。そして、その反応の仕方も人によって微妙に違っているはずだ。

共感性羞恥の感覚を持つ人間がすべて同じシーンで恥ずかしさや”いたたまれなさ”を感じるわけではないし(たとえば、ドラマはリアルでだめだけど、アニメは問題なくみれるとか)、バラエティ番組なんかのお約束の流れであれば楽しんでみることができるという場合だってあるだろう。

 

ちなみに、共感性羞恥については、海外でも研究が進んでいるようで、この共感性羞恥という言葉も、もともとは“empathic embarrassment”という言葉を日本語に訳したものらしい。

なぜ、人の行為を見て恥ずかしくなるのか」という論文の中で、著者である桑村幸恵さんは、共感性羞恥と呼ばれる現象が「共感性を媒介とし発生するものかどうか明らかではない」という理由で「観察者羞恥」という用語を使っている。

いや、私が直してほしいのはそっちじゃなくて、羞恥の方なんですけど…まあ、いっか。
でも、観察者共鳴とか、観察者投影とかなら、感覚や感情のグラデーションにも配慮が感じられて、ネーミングとしてはだいぶアリなのかもしれない。

たいしたオチもないまま終わることに羞恥を感じつつ…今回はこのへんで。
それでは、また。