この映画のテーマは、いわゆる”ポスト・アポカリプス“。
ウィルスにより人類が死に絶えた後の世界を描いた映画だ。
ウィル・スミス演じる科学者のロバート・ネビルは、人類でただひとりの生存者である。
ウィルスに感染した人類は、その94%が死亡し、残り6パーセントの免疫を持つ人類のうち、さらに5%は”ダークシ―カー”というゾンビ的な怪物に変容してしまった世界が物語の舞台だ。
ロバートを含む残り1%が特に異常をきたさず生き残ることができたというが、そのほとんどが、そのダークシーカーの餌食になってしまったという。
そして、ロバートは、科学者としての使命感から、ウィルスのグラウンド・ゼロであるニューヨークに残り、ナイトシーカーを”もとの”人類に戻すためのワクチンの開発に命がけで取り組んでいる。
ダークシーカーは紫外線に極端に弱く、その名のとおり太陽の元では行動できないのが唯一の救い。この設定のおかげで、ロバートも、昼間は結構一人の生活を満喫できている様子であった。
2016年現在、改めてこの映画を見てみると、2009年に致死率90%のウィルスが世界中で蔓延し、2012年には世界中でほどんどの人類が死滅したという設定は少し奇異な感じは否めない。
だが、私はなぜか”ポストアポカリプスもの”に弱いようだ。
核戦争によって荒廃した世界にせよ、あるいはウィルスによって人類が死に絶えたにせよ、そういった極限ともいえる環境で生き抜く人間が繰り広げるドラマに目がない。
例え、プロットや設定は使いまわされた陳腐なものであっても、登場人物たちが生き生きと描かれていれば、特に疑問を抱くことなく最後まで見いってしまう。
キャストアウェイでもそうだったが、人は、極限まで孤独な環境に置かれると、何としてでもコミュニケーションを渇望する生き物ものなのだろうか。
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この映画でも、ウィルスミス演じる主人公が、レンタルビデオ店に配置された(劇中では描かれなかったが、おそらく彼が自ら客や店員を模して配置したものだろう)マネキンに親し気に話しかけるシーンが描かれていた。
女性のマネキンを指して、
「今度こそあの女の子に声をかけるからさ。」と、別のマネキンと談笑するシーンは、何だか切なすぎて笑えなかった。
キャストアウェイでは無人島、アイ・アム・レジェンドではポストアポカリプスと設定は違えど、ただ一人の生存者を描く上で、”孤独”というテーマはおそらく避けては通れないものなのだろう。
ただ、この映画には、ロバートの相棒として愛犬サムが登場する。
言葉は話さずとも、自分の言動に逐一反応してくれる存在がいるというのは心の支えになるものだと改めて考えさせられた。
終末期を描く作品が名作になるために条件は大きく分けて2つあるという。
ひとつは、その世界観にリアリティがあること。
「もしかしたら、わが身に降りかかってもおかしくないかもしれない。」
そう思うことで、視聴者は作品の世界に一気に引き込まれていくという。
この点、先ほどお伝えした通り、作品の舞台は2012年のアメリカ・ニューヨーク。時期的に既に現実とはなりえないことが確定しているわけだが、それはともかく、人が消え、荒廃したニューヨークの街並みはなかなかリアリティがあって想像力を掻き立てられるものがあった。
ただ、シカはともかく都市部にライオンが登場するのはどうだろう(笑
動物園から脱走したのがそのまま居ついてしまったというような裏設定でもあったのだろうか…。
そしてもうひとつの条件は、本当の終わりではないこと。
そりゃそうだ。もう一貫の終わり、夢も希望もありませんでした!では、ストーリーが成立しない。ゆえに、今後、人類が生き残り、また新たな世界を築いていけるでろう予感を匂わせることが肝心なのだ。
これも、多少強引ではあったが、ロバートからウィルスに対するワクチンを託された女性が、映画の最期で人類が生存する村を発見し、彼らと共にロバートの遺志を継いでいくだろうという形で何とかクリアしている。
よって、要件だけみれば、この手の映画としてのポイントは抑えているわけだけれど…なんだかどこかで見たような展開のオンパレードという感じは否めない。
ただ、だからといって、つまらなかったかというと決してそういうわけではなく、一人の男が、孤独な世界の中で、時に真剣に、時にユーモラスに、もがき、それでもあきらめず、最後は、人類を救う偉大な使命を果たして伝説になったというストーリーラインは、シンプルだが見終わると同時に、心地よいカタルシスを感じさせるものだった。
ちょっと寂しい夜に、元気がもらえそうな映画である。
それでは、また次回。