批判も共感もしたくないとき。

例えば、自分はあるアーティストが好きだとする。

今の私にとってそれはglobeで、もうダントツで好き。
自分の中では、他のアーティストなんて比較にならないほどぶっちぎりで1位なんだけど、

「globeってやっぱりいいよね」という話をすると、
玉置浩二やイエモン、あるいはユニコーンなんかを持ち出されて
「そうそう、あの年代の音楽は良かったよね。」と的外れな反応が返ってきたりする。

違う違う。そうじゃない。
年代の話じゃなくて、僕が言いたいのは、globeがぶっちぎりで最高だってことなんだ。

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そこを分かるよ~と言わんばかりに年代で一括りにされるとイラッとする。
しかも、それぞれ年代も微妙にズレてるし。

でも、話をした相手は、また別のアーティストの信奉者ということも多い。

そうなると、それぞれ一押しをゴリ押しするという水掛け論になってしまう。

嗚呼、何とも不毛…。
そういう時、相手を批判せずに、

「あ~そのアーティストは僕も好き、いいよね。」なんて共感してみせることで丸く収まることはよく分かっている。

どうでもいい話題や世間話とかならば、全然それでいいんだけど、

なんというか、ダメなんだ。
青春時代を共に生きた音楽のこととか、人生を変えた本のこととか、出会いの話とか恋のこととか。これだけは譲れないっていう自分の根幹を支えているような価値観だけはどうしても揺るがせにできない。

まあ、子供なんだろうな、と自分でも思う。

ただ、自分の大切な価値観を蔑ろにしてまで器用に共感してみせる大人には、正直、あまり憧れを抱かない。

もちろん、相手にも自分と同じような揺るがせに出来ないモノがあるだろうから、それに関しては否定したくはない。自分がそうされたらとても悲しいから。

だけど、やっぱり、それが2者択一のようなもので、相手の価値を認めることが、結果的に自分の大事にしている価値観を貶めるようなことになるのなら、共感だってしたくない。

そんなとき、僕はいったいどんな風に相手の話を聞き自分の想いを伝えればいいのだろうといつも思い悩むことになる。

否定も肯定もせず、お互い気持ちよく。

それが理想ではあるけれど、なかなかむつかしい。
一歩違えば、それって無関心なんじゃないの?とも取られかねない。

愛情の反対は憎悪ではなく無関心だというし、それって最も相手を傷つける行為なんだろうなとも思ってしまう。

かといって、必要以上に相手に合わせると疲れるし、後で決まって自分で自分が嫌になる。なんで、もっと自分を大事にしなかったのかと。

人生を最後までともに歩んでいくのは、自分しかいない。

どんなに愛する相手とでも、一緒に死んでいくことは出来ない。
心中したって、片方生き残ることもあるしね。

それはともかく、自分の大切にしていることは、想いは、やっぱり大切にしたい。
誰が何と言おうと。こういうのが行き着く先は、もしかしたら宗教だったりするのかな。

まあ、だから大切なのは自分の価値観と相いれないものを否定はしないってことなんだよね、きっと。たとえ認められないとしても。

そのバランスの取り方については、それを言動や立ち居振る舞いにどう乗せていくかも含めて、これから考えていかないといけないなぁ。

それでは、また次回。