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記憶違いかもしれないが、確か、作者の虚淵玄氏は、自らハッピーエンド恐怖症だと自嘲していたように思う。
無論、それは彼一流の冗談だとして、氏は、最初からあえて暗い結末に向けて書き始めたわけではなく、このFate/Zeroという作品と真摯に向き合った結果そこに至ったと見るべきだろう。
本来作品は、自由に描いていいものだ。
ならばとご都合主義や、この物語流にいうならば聖杯の奇跡を持ち出せば、原理的にはどんな結末でもお望みどおりに迎えさせることだってできる。
もちろん、これだって質の悪い冗談には違いない。
原作のある作品と真摯に向き合い、登場人物たちの願いに、想いに耳を傾けたならば、とてもそのような半端な結末にはたどり着くことは出来ない。
物語自体はいかにも暗く、救いという救いは存在しない。
あえていうならば、切嗣の意志を史郎が引き継いでいくだろうということくらいか。
だが、この作品の価値は、そのような暗闇の中に差し込む一条の光のような光明にあるのではなく、虚淵氏をはじめ、制作にかかわったスタッフたち全てが、最後まで臆せず絶望と向き合い、妥協なき結末までたどり着いたことそのものにあるのではないか。
少しだけ、内容にも触れておこう。
作中に登場するサーヴァントと呼ばれる英霊たちは、皆、かつては歴史に名を残した英雄たちばかりだ。その中で、私が特に心惹かれたのが、征服王イスカンダルとそのマスターであるウィーバー少年のやりとり。
ウィーバーは、魔術師としては半人前で、この手の作品には必ずといっていいほど登場する凡人枠。いわゆる”ヘタレキャラ”である。
そこに、いきなり歴史に名高い征服王が現れ、縦横無尽、豪放磊落にふるまうのだから、ウィーバー少年もたじたじだ。そして、イスカンダルの王としての器の大きさに触れ、やがて自らを卑下するような言動を繰り返すようになる。
だが、イスカンダルはそんなウィーバーを最後まで決しては軽んじることなく、時に叱咤し、時に励まし、少年の泣き言を笑い飛ばしながら、あくまで寛大に、対等な戦友として同じ時を過ごしていく。
その過程で、ウィーバー少年が少しずつ弱気な自分の殻を破り成長を遂げていく様が見ていて実に清々しい。
物語は結末がすべてではない。
結果がどうであれ、そこへと至る過程で、流した汗や涙、そして想いは、時に、見たものに結末を凌駕するほどの鮮烈な印象を残す。
個人的な感想としては、聖杯が万能の願望器でなくて良かった。
人の願いを成し遂げるのは、あくまでその意志と力なのだ。
それぞれが抱く正義、野望、愛、狂気、背徳。
方向性は違えど、それらはすべてかつては純粋無垢だった少年少女の魂が描き、夢見、生み出したもの。
その想いの交錯した先に待つのが絶望だとしても、後悔だとしても…
人は業深く、同じ過ちを繰り返す。
だが、それは、過ちが理想を目指した果てに待つが故だ。
ゆえに、理想を目指したものだけが真の意味での絶望を味わうことができる。
その過ちを非難することが果たして誰にできるだろうか。