いざ、退屈のその先へ

ゲーム




最近テレビゲームをプレイすることを控えている。
その結果「退屈が手に入ったよ」というと奇異に感じられるかもしれない。
なぜなら、テレビゲームはまさに退屈しのぎ、暇つぶしの代名詞であり、皆退屈から逃れるようにゲームをプレイしているからだ。
確かに、テレビゲームは「楽しい」。だが、それだけだ。
子供時代ならその話題で盛り上がったり、いち早くクリアしてクラスのヒーローになれたかもしれない。
しかし、社会に出ればゲームの話題で盛り上がれるとしても、ごく限られたコミュニティーでの話に過ぎない。
大抵の人は、そのゲームの存在すら知らないだろう。

プロゲーマーや有名実況者などを除けば、ゲームはただの自己満足に過ぎない。
しかも、すべて他人が作った架空の世界での出来事だ。
おまけに、ゲームは小説などとも違い、同じことの繰り返しを半ば強要されている。
レベル上げなどはまさにその典型だろう。

 

さらに、オンラインマッチや対人戦ともなれば、勝つためにアスリート並みの鍛錬が必要となる場合もある。
プロゲーマーとして生きていくような覚悟を決めた人間ならばともかく、一般のゲーマーにとってそのような努力に果たしてどれほどの価値があるのか。
ふと、そんな疑問が湧いたのだ。

ゲームをやめてみると、当たり前だが、膨大な時間が手に入る。
だが、それは当初とても退屈な時間だった。
刺激がない。勝利もない、敗北もない。
一言でいえばまさに、”退屈”。
しかし、ここでまた、別の刺激を求め退屈を忌み嫌ったのなら
ゲームに興じていた頃と果たしてどれほどの違いが生まれようか。
そう考え、
どうせなら、徹底してこの退屈とやらを味わい尽くしてみようと思い立った。
当初は、悶えるような苦痛を感じたが、
しばらく耐えていると意識は自然と自分の内面へと向かった。
人間は、外からの刺激がなくなると内省へとむかう生き物なのかもしれない。
ゲームのような強い刺激にさらされていた時には、意識が外へ外へと向いていたため、それどころではなかった。
(そういえば、子供のころは漫画を描いて友達に見せるのが楽しみだったっけ)
(また、学生時代のようにバスケットボールをプレイしたいなあ)
(ヒューマンビートボックスって楽しそうだなあ)
(明日から、駄作でもいいから小説でも書いてみようか…まずは、ノートを買ってこようかな。)
ゲームをしていた時には、頭に浮かびさえしなかった考えが次々と湧き出てきた。
おそらく、これらの閃きの中から、いくつか試したり習慣化したりしていくのだろう。
もちろん、そのほとんどは無駄に終わるかもしれない。
しかし、それでも構わない。
それは、閉じた世界、他人が作った架空の世界の話ではなく、
すべて、自分が生きるリアルな世界での出来事になるだろうから。