ひきこもりは社会とのつながりを過大視した結果←わりと慧眼かも


いざとなったら、ひとりになればよいという記事を読んで考えたことを少々。

ひきこもりは社会とのつながりを絶ち孤独になるためのものである。
一般的には、そんな風に考えられているのかもしれない。

確かに、現象面を見れば、ひとりで部屋の中に閉じこもって誰とも口をきかないのだからそのように思われても仕方ない面もあるだろう。

しかし、一方で孤独とは何かと考えてみる。もっというと孤独な人間とはどのような人間か。
親しい友人や、困ったときに相談できる他者がいないこと?
それも条件のうちに含まれるのかもしれない。

しかし、孤独をネガティブでもポジティブでもなくリアルなものとしてとらえようとしたとき、
孤独な人間とは、一人で生きるということに開き直ることができた人間だということもできるのではないか。

まともな人間は、友人の一人くらいいなければならない。
まともな人間は、人前では社交的にふるまえなければならない。

本当に孤独な人間は、きっと、このような常識に縛られたりはしないのだろう。
あるいは、縛られている自分を自覚し、必死に解こうともがいている途上か。

そして、ひきこもりとは、
このような社会の常識に人一倍がんじがらめに縛られた結果なのではないか。

人前で社交的にふるまえない自分は、ひきこもるしかない。
友達のいない自分はひきこもるしかない。

そう考えると、ひきこもりとは孤独と最もかけ離れた姿だと言えはしないか。

人の中にあってひとりをたのしむ。
必要以上に他人に媚びない。そして、群れない。

そしていざとなったら、いつでも孤独というひとりだけのオアシスでくつろぐことができる。
その絶対的な安心感があるから、いつだって自然体でいられる。

本当に孤独な人間とは、一般的にイメージされるものとはかけ離れたものなのかもしれない。
そして、それは外側から見ただけでは分からないものなのだろう。